人を義とする

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 3:4-9

 第2回目の牧師室だよりにも書きましたが、4月の末に行われました中部教区総会では、2日目の朝に、堀江先生の感謝会があり、そこで金沢教会の井ノ川勝先生が感謝の言葉を述べられました。丁寧に堀江先生の歩みをご紹介されながら、私たちの教会で発行しました堀江先生の説教集の言葉を引用しながら、堀江先生の福音理解の基本に触れられました。
 それは、日本の教会が、自分の罪深さを悔い改める言葉を語るけれども、新しく生まれ変わった者としての生き生きとした喜びの姿に生きていないこと、だから自分は、「キリストにあって罪の赦しを受け、新しく生まれ変わり、喜んで信仰に歩む信仰者の姿というものを生き生きと伝えたい…聖霊によって新しく生まれ変わったキリスト者が喜んで形作る群れこそ、交わりこそ、教会である。」
 この堀江先生の言葉で語られる、罪の上で未だ蜷局を巻いているのではないかと感じられるような喜びの少ない信仰生活の問題性を見抜き、それを打破する新しく生まれ変わった者の喜びに生きる基本的な福音理解を、堀江先生は、いつ頃から身につけられたのだろうか?この元町教会で、いつからそのような自由と解放を自覚的に強調される説教をし始められたのだろうか?私にとっては、興味のある問いです。
 今、私たちの教会では、新年度の第一回目の教会報を出す準備を担当長老が始めてくださっていますが、私もその準備の足しになればと思い、機会を見つけて、過去の教会報を読んでいます。その中で思いがけず、その問いへの答えが与えられました。2002年8月に発行された教会報の巻頭言、つまり、元町教会が堀江先生を牧師として迎えての最初の教会報の巻頭言になるわけですが、その終わりに、次のような言葉を見つけました。
 「私たちは自分の弱さや頑なさのために罪を犯します。だから謙遜にならねばなりません。しかし、クリスチャンだけど罪を犯す弱く頑なな罪深い者ですとうなだれる必要はありません。そのような者の罪を赦し、生まれ変わらせる神の恵みが現れたのです。罪人を神の子とする神の愛が示されたのです。神の目に映る私たちは、罪人ではなく、神に愛される神の子なのです。クリスチャンとされていることを喜びましょう。」
 2002年の最初の教会報の巻頭言から、2017年の引退記念の説教集後書きに至るまで、つまり15年間、堀江先生は、この元町教会で一つのことを言い続けたのだと知りました。
 「私たちは罪赦された神の子なんだ。自分の弱さとかたくなさにうなだれるのではなくて、生き生きとした喜びに生きるのだ。」
 15年間、この教会でこの一つのことが語られてきました。私は、元町教会の秘密が少しわかった気がいたしました。エフェソ書3:12に、パウロのこういう言葉がありますが、それは、まさに元町教会のことを言い当てていると私には思える言葉です。
 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」
 神の御前における大胆さというのは、キリスト者の一つの徳であると思います。神の前で建前と本音を使い分けないのです。私が誰で何者であるかという私たちのアイデンティティーを形成しようとする言葉が世の中には溢れています。職場では、良いビジネスマンであること、家庭では、良き妻、良き夫であること、父母の前では良き子供であること、子どもの前では、良き親であること、孫の前では、良き祖父母であること、そのような様々な役割を担うことが期待されます。
 けれども、その人の期待に応えながら、その評価に一喜一憂しながら、その狭間で自分のアイデンティティーを獲得しようとする試みは、疲れてしまうことがありますし、そこから、二面性が生まれてしまうことがあるかもしれません。いつでも、良き妻ではありえない。いつでも、良き親ではありえない。祖父母ではありえない。子ではありえない。私にこうあってほしいと期待する人の目を盗んでたまには息抜きしなければやってられないというのが、私たちの本音であるかもしれません。けれども、私たちは、神の御前では、そのような本音と建前の二つの顔を持つ必要はありません。
 改革派の信仰の特徴的な表現の一つにコーラム・デオ、「神のみ顔の前で生きる」という表現があります。それは日本語の「誰が見ていなくても、お天道さんが見ている。」という感覚に近いかもしれません。それは、真剣に考えれば考えるほど、恐ろしいことであるかもしれません。それこそ、神のみ顔の前で生きるという意識は、いつも神さまに見られているのだからきちんとしなくてはという意識から、びくびくした罪に敏感な生き方になるかもしれません。
 けれども、その私たちが、いつでもその御顔の前に生きている神様とは、神は神でも私たちの行いを天から見張って、閻魔帳に私たちの良い行い、悪い行いの勘定を細かく付けているお天道さんではなくて、主イエス・キリストの父なる神さまなのです。つまり、私たちがいつでもその御顔の前で生きている神さまとは、御子イエス・キリストを私たちのために送り、その方を通して、私たちの過去、現在、未来の罪を永遠に十字架に磔にしておしまいになられたイエス・キリストの父であり、またそのゆえに、この私たち自身の天の父となってくださった神様なのです。
 この神様の前では、私たちは何事も隠し立てすることなく生きることができますし、二面性を持つ必要が全くありません。そして、神のみ顔の前で生きるということは、私たちにとっては恵み以外の何ものでもありません。なぜならば、この方は、私たちの罪深さがどれほど深いものであるかを、既によくご存じだからです。
 先週の祈祷会も、とても有意義な祈祷会でした。2週に渡り、マタイによる福音書の14:1~12を黙想いたしました。領主ヘロデが、妻へロディアの策略にはまり、宴の席で踊った妻の連れ子が望んだ褒美として、引くに引けず洗礼者ヨハネの首を刎ねたという戯曲の主題ともなる有名な箇所です。特に第2回目は、私たちはテーマを設けて話し合いました。きっと意外に思われるかもしれませんが、「ヘロデ、へロディアの罪を、自分の中にある罪として読もう」という提案が出席者からなされ、話し合われたのです。おどろおどろしい聖書の物語の登場人物の極めて暗く醜い罪を自分のこととして読んでみる。どんなに自分とは無関係な罪に見えようとも、私は聖書黙想としてこの態度は、ふさわしいことであると思います。そこで、自分の罪を発見することも良いことだと思います。
 けれども、私は思います。その時、私たちは初めて自分の救いがたい罪深さをその中に発見するかもしれません。しかし、神さまは私たちのそんな罪は、重々承知であられたのです。それはたとえ、私たちが、「私は、洗礼者ヨハネの首を刎ねたヘロデやヘロディアのような罪人ではないし、まして、イエス様を十字架で殺した民衆や、ピラトや、律法学者や祭司たちのような罪人ではない。」と言う時も、神さまは私たちがそのような罪人であることをよくご存じであられるのです。その自分の罪を認めることができない、まさに、そのような頑なな罪人である私たちであることを神様はよくご存じでいらっしゃいます。私たちが認める前から、知る前から、私たちが永遠に知らずとも、神さまは私たちの罪をよくご存じでいらっしゃいます。
 詩編第139篇の冒頭にこういう言葉があります。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる」。この御言葉によれば、全部ご承知の上で、神さまは、私たちの父となってくださったのです。
 私は、皆さんと共に、改革派の信仰の伝統に立つことを喜んで受け入れる者として、強調したいと思います。私たちの悔い改めは、神の下さる赦しに先立つものであることは絶対にできません。赦しを頂くために悔い改めるなどということは、律法主義です。いつでも赦されているから悔い改めることができます。
 小さな子どもと同じです。悪さをした子どもが親に向かって心から「ごめんなさい」と言えるのは、赦されていることを知っているからです。自分の存在が受け入れられ、肯定されていることを知ってはじめて、真っすぐに自分の罪と向き合うことができます。けれども、それはただ、赦された罪として、罪人としてではなく、罪赦された神の子としてのみ、キリストが担い、解決してくださったもう自分のものではなくなった自分の罪を真っすぐに見ることができます。そこに、神の御前における大胆さが生まれます。喜びが生まれます。
 「神の御前で自分たちの罪深さを告白し、悔い改めるばかりで、罪赦され新しく生まれ変わった喜びが生き生きとして聞こえてこない。そこに今日の日本の教会の問題があるのではないか。」そのような問題意識を持ち、堀江先生は、聖霊によって生まれ変わらせていただいた者の喜びを強調されました。15年間、その喜びの言葉を聞き続けてきた元町教会です。この教会を満たす明るさ、率直さは、その喜びの言葉を聞いて来た信仰者が結んだ実です。私も、そのような喜びの御言葉を変わらずに語りたいと願います。
 喜びを語り続けた堀江先生が、しかし、昨年度をもって引退された理由を、井ノ川先生もご紹介されていました。堀江先生は、これからの元町教会の伝道を考えると、少し早いかもしれないけれど、若い伝道者に交代した方が良いとお考えになったということでした。若いセンスで、若い力で、新しい時代に即した伝道の道を模索していく必要があると、それこそ、捕らわれない自由を持った堀江先生はそうお考えになったということでしょうか。実は、私にどうして欲しいとか、何を期待しているかなどということを話されて、私は牧師の務めを引き継いだわけではありません。「長老会と相談しながら、先生達のお考え通りに」と言っていただきました。
 しかし、年長の牧師よりも、若い牧師になった方が、伝道が進むなどということはないと私は思います。そうではなくて、私たちが、これからも、喜びの福音を聞き続けるために、次の世代にバトンを繋ぐように、牧師は交代していくのだと私は思います。そして、この喜びの福音を聞き続け、私たちが、神の御前に大胆に立ち続け、それだから、この神に支えられて、伝道するならば、必ず、福音に生かされる者は生まれると信じます。
 さて、なかなか今日の聖書個所を取り上げず、非常に長く前置きのような話をしたように、もしかしたら聞こえているかもしれませんが、実は、今までのところで、私は、今日の聖書個所は、もう聞かれたのだと思っています。今日の聖書個所が語っているのは、まさに、神の御前における確信、大胆さをパウロが語る箇所であり、また、その神の御前におけるパウロの確信とは、そのままずばり、伝道の業に仕えるための確信なのです。
 伝道のための確信、大胆さです。神さまのみ前でパウロは、はっきりと言うことができました。「私には、福音伝道に仕える資格が与えられています」と。なかなか大胆な言葉だと思います。
 私たちには、イエス様から大宣教命令という伝道の使命が与えられているということは、ここにいる多くの者が知っています。けれども、自分に伝道ができるか?その使命を十分果たせるか、その資格が自分にあると言えるかと自問するならば、途端にあいまいになります。私たちは奥ゆかしい、あるいは村社会に生きる日本人として、熱心に宗教の勧誘活動を行ったら、拒否されてしまうかもしれないとか、人におかしいと思われるかもしれないとか、伝道という言葉を聞くと、即座には、そういうことを想像することもあります。
 けれども、もしも、私たちが伝道に大胆に打って出ることを、躊躇する思いが私たちの内にもどこかにあるのだとすれば、それは、根本的には、実は人を恐れる思いではないのではないかと最近、私は思うようになりました。御自分の心に問いかけて頂ければ、同意していただけるだろうと私は思っています。私が福音の言葉を語る必要があるだろうあの人、この人に私が、語ることができていないとすれば、それは、その人を恐れ、変に思われたら嫌だという気持ちが一番強いだろうか?あるいは、それは、自分には、福音を真っすぐ語る自信がないということ、私には、伝道の資格が与えられているとは思えないということ、私を止まらせているものは、人間ではなくて、神の御前における恐れなのではないだろうか?この二つのことを問いかけてみたら良いのです。そして、私は、後者だと感じるのです。自分が伝道するチャンスのある目の前の人に、真っすぐに、福音の言葉を語れないことがあるとすれば、それは、自分には福音を語るふさわしさ、福音を真っすぐその人に届ける力量がないなと感じている所にあると思うのです。
 私が前の教会で担当していた家庭集会でこういうことを正直に仰る方がいました。「自分は伝道しなければならないと思っているけれど、なかなかできない。たとえば、病院でも、レストランでも、自分が良かったと思えるものは、どんどん人に勧められるのに、どうしてか福音は、人に勧めることができない。そのことを考えてみると、長く教会に通っていても、はっきりと筋道を立てて、人に信仰の事柄を語ることができないから、つまり、自分には福音の理解が足りないから伝道できないのだと思う。」そう仰いました。私は、その気持ちが、とてもよくわかると思いました。そしてまた、それは神学校を卒業してもあんまり変わらないとも思いました。教会の教師だから、筋道だった言葉、教理の言葉を知っています。しかし、その言葉をいつでも生き生きとした言葉として語れる自信は自分にはない、自分が語る言葉では、福音の急所や深みに至らないのではないか?やはり、自分には福音の理解が足りないと思っているのです。
 ルドルフ・ボーレンという神学者は、かつてこのように語りました。「〈使徒的〉という次元が、説教の務めから失われてしまいますと、説教者は、自分自身の平凡さのなかに座り込んでしまい、牧師の務めそのものが、お役所仕事になってしまいます」と。これは厳しいけれども、真剣に考えなければならない言葉であると感じます。使徒的というのは、自分には伝道の資格があるということを確信していると言い換えることができるかもしれません。このようにパウロのような生き生きとした確信をもって福音を自由に大胆に語ることができないならば、福音を解く言葉は、お勤めになってしまいます。それは、しない方が良いと言う他ありません。
 なぜ、パウロには、神のみ前に、そのような自分の資格を確信し、大胆に、自分の務めに仕えることができたのでしょうか?私たちの聖書個所において、まったく明らかなことは、パウロは、自分自身の才能とか能力に、福音を伝道する者としての資格を満たす条件が揃っているとは考えなかったということです。5節で「独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません」と、彼は語ります。私たちの資格はただ神が与えてくださるのだと言います。そもそもパウロがコリント教会において、一貫して取り組んできたことは、コリント教会の能力主義と対決することでした。第10章から12章までの、「涙の手紙」と呼ばれることのある激しいパウロの息遣いが聞こえてくる部分では、さらにパウロが自分の資格を明らかにしようとしている箇所だと言えます。そこで、パウロは自分の秀でた才能と能力、労苦と情熱を数え上げますが、彼がそうするのは、自分の弱さの中に語り込まれた主の言葉、パウロの弱さの中に権威を授けられた主のお言葉を、能力主義に魅入られていたコリントの人々に紹介するためでした。すなわち、第12:9の主のお言葉です。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と、そのように約束された力の授与を、パウロの資格に疑いを持つ能力主義者たちに紹介するためでした。人と比べて見栄えのする自分の強さ、劣らなさを明らかにしながら、しかし、そこにではなく、パウロの弱さの内に現れされたキリストの力を示すのです。
 パウロは、福音伝道の委託を受けている私たちの資格が問われるとき、人間的な見栄えのするふさわしさが一切混入しないようにするためにこそ、自分の血統や能力、それどころか自分の福音の知識の豊かさや、福音への熱心さまでを挙げ、それらを福音伝道の資格が与えられるための条件から完全に排除したのです。そしてひたすら、伝道の資格が与えられた顛末として一つのことを強調します。
 12:9以下です。「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
 そうなると、私たちの自信のなさ、私たちの弱さ、私たちのふさわしくなさ、このような私たちを沈黙か、平凡なお勤めに導いていく危険のある、この私たちの弱さを私たちが感じているということは、実は、たいへん素晴らしいことになると思います。私達が、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態になると、そこで、キリストの力の顕現が起こると約束されているからです。つまり、私たちの能力の真空地帯どころか、マイナス地点に伝道の資格が与えられているのです。神は私たちのマイナスを用いて、キリストを証することにされたのです。これこそが、文字ではなく、霊に仕えることであります。
 文字は私たちを殺します。弱い者にこそ、そのことがよくわかります。神がイスラエルの民にくださった律法、それは、神から出た良いものです。けれども、弱い者は知っています。どんなにそこに記された人間の姿が、本来のものであることが分かっても、どうしてもそれができないから苦しいのだと知っています。しかし、私たちが文字ではなく、霊に仕えるようにされているということは、私たちが神の言葉の前で、茫然自失としてしまうその時に、その言葉を語られた神の生ける霊ご自身が私たちの元にやってこられ、無力であった私たちの命になってしまい、私たちをキリストのいのちに生かされている新しい人間としてしまったということです。その新しい生ける人間とは、3:9によれば、人を義とする人間です。祝福を告げる人間です。どのような祝福を告げるのか?今まで見てきた自分自身が生かされているその祝福です。
 文字に仕える人は、無責任だと言うかもしれません。弱い者をこそ神が力を与え、用いられるという言葉を、平安がないところに平安、平安という偽預言者の言葉だと非難するかもしれません。けれども、この祝福には根拠があります。十字架のイエス・キリストです。私たちのために、無力になり、しかし、神によみがえらされたイエス・キリストが、弱い私たちの強さの源です。そして、十字架のキリストが、文字にふさわしくない私たちのふさわしく無さを私たちに代わって完全に死んでくださいました。そして、代わって、私たちには、誰にも覆せない義が告げられました。
 功のない私たちが義とされ、その私たちが、福音を伝える者とされ、だからこそ、功なき者を義とする霊の御業を伝える私たちの言葉には説得力が宿ります。人を解放する義を宣告する者が、その務めにおいても、弱さの内に、その義を宣告されて、自分自身解放されながら、語るのです。何と素敵な事かと思います。
 このようなキリスト者である私たちの顔には輝きがあります。パウロを見るときに私たちが感じるまぶしさと、同じ輝きがあります。これは本当のことです。それは、私たちの内に宿ったキリストの輝き、私たちのこの体を宮としてくださる聖霊から出る輝きです。律法から福音へと、罪から義へと、死から命へと解放された者の輝きです。神が約束してくださっています。この栄光は束の間のものではない。永続するものであると。だから、安心して足りない自分の言葉で福音を語ることができます。むしろ、それが良いのです。
 神学者ボーレンは、先ほどの言葉を語ったのと同じ講演の中で、コリントの信徒への手紙Ⅰの4:5「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」という御言葉を引用しつつ、次のような言葉をもって私たちの伝道の働きを見てくださる神のまなざしを紹介しています。「来たりつつある神は、そのしもべたち、しもめたちをほめるために来られます。」そしてまた、「失敗したことも、ほめていただくことがないということだけで取り去ってくれます。」と。
 私はこの言葉を読んでトンカチで頭を殴られたように感動しました。伝道して成功したら、神さまにほめられる。失敗したら、ほめられないだけ。責められるようなことはないのです。福音を生きるということは、本当にこういうことだと思います。もはや、本当に罪人として勘定されないのです。義とされているのです。その義とされた者が、同じ神の義を人に届けるのです。そして、神のおほめに与るのです。

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