主は呼んでくださる

 主イエスが、最初の弟子たちを呼ばれた聖書の物語を読みました。マタイによる福音書は、あえて意識的にそのような描き方をしているのだと思いますが、主イエスに呼ばれた漁師たちが、なぜ、そのあとに従ったのかという理由は、書かれていません。

 ヨハネによる福音書においては、後に12弟子の一番目のものと目されることになる、今日の聖書個所において主イエスより招かれたシモン・ペトロと共に招かれた兄弟アンデレが、もともとは、洗礼者ヨハネの弟子であり、このヨハネから、主イエスこそ「神の子羊」と教えられていました。だから、兄弟シモン・ペトロにもそのことを伝え、二人で主イエスの元に行った、そういう出会いがまずあったのだということを語っています。

 けれども、マタイによる福音書は、おそらくマルコによる福音書の記述に従ってそのような描き方をしませんでした。それどころか、マルコとは少し言葉遣いを変えながら、二組目の兄弟ゼベダイの子ヤコブとヨハネも招かれると、「この二人もすぐに、船と父親とを残してイエスに従った」と、「すぐに」という言葉を彼らの突然の服従に結び合わせて語ることによって、主イエスの招きと、その招きへの服従はいつもこのような唐突な形で起こるような印象を意識的に与えようとしていると言われることがあります。そこには、なぜ、彼らが主イエスの御跡に従うようになったかという明確な理由はないのです。

 けれども、このことに目を留めながら、ある説教者は、考えてみれば、現代の主イエスの弟子である私たちも同じようではないかと言います。私たちが教会に結び付く時も同じではないだろうかというのです。たとえば、たくさんの宗教を目の前に並べて、その品定めをした上で、教会に来ているわけではありません。もちろん、いくつかの教会を経験した末に、この教会に落ち着きどころを得たとか、別の宗教を信じていたけれども、今は、教会に繋がっているということはありうることです。しかし、すべての宗教を並べて比べたわけではありませんし、全部の教会を見て回った挙句に、ここに通うことに決めたということは少ないと思います。やはり、そこには、自分の判断とか、選択を超えた不思議な導きがあり、なぜだか、ここにいるということなのではないかと思います。自分は教会に通うことも、洗礼を受けることも自分で決めたと思っている人がいたとしても、けれども、よく考えてみると、入学した学校がたまたまミッションスクールだったとか、職場がそうだったとか、結婚相手がクリスチャンだったとか、生まれた家がキリスト教だったとか、教会が家のすぐそばにあって、友達がそこに住んでいたとか、あるいは、自分は生きる道に迷い、自分で進んで、意識的に教会の門をくぐったのだという方も、なぜ、教会に行くことを選んだかと言えば、尊敬する恩師がキリスト教徒だったとか、友人の葬儀が思いがけずキリスト教式だったとか、そういう自分の意志や選択の外にある偶然のようなきっかけを通して、誰しも教会に導かれるものなのだと思います。だから、そこまで厳密に考えていくならば、私たちが今ここにいるということも、この最初の弟子たちの不思議な姿とそう変わるものではないのかもしれません。最初に自分が望んだのでも願っていたわけでもないけれど、偶然の積み重ねにより、あるいは不思議な巡り合わせにより、キリストの教会に来て、最初の弟子たちと同じく、主イエスのお姿とお言葉を、不思議にもここで聞いているのです。 けれども、教会は、このような事態を、運命とか、巡り会わせとか、偶然という言葉では、理解しませんで、主の招き、主の召し出し、召命が、私たちの今この時を作り出しているのだと信じています。そのような主なるお方の招きを信じることは、それについて思い巡らしてみることは、私はなかなか素敵なことではないかと思います。

私たちは、今日も礼拝の最初に招きの言葉を聞きました。週報に載ってている礼拝式順の前奏の次に招詞という言葉が記されています。そこで、礼拝の初めに招きの言葉が読まれます。聖書の言葉です。私たちが神さまの言葉と信じる聖書の言葉です。つまり、この礼拝は私たちは、主なる神様の招きが語られるところから始まるのです。来ても来なくても良いというのではなくて、ぜひ来てほしい。私の元にいらっしゃいという語り掛けから始まります。だから、私たちがここにいるということは素敵なことだと思うのです。私たちが神に招かれてここにいるということは、考えてみれば、私たちは喜ばれてここに存在しているということなのです。

 聖書の神様は、来る者は拒まず、去る者は追わずという方ではないと思います。人間を探し求める神です。今日ここにいる者は、神様にとっては、いてもいなくても良い者ではありません。招くっていうのは、居てほしいから招くんです。居てほしいと思われているというのは、自分が神さまにそういう風に見做されているというのは、心強いことだと思うのです。昔、アメリカを旅行した時、車のバンパーに、「神様が遠いと思ったら、それは君が離れたからだ。神さまは、変わることのないお方だ。」というステッカーが貼ってあるのを見て、感心した記憶があります。さすがに、キリスト教国のような国だと思いました。それは、聖書の神様の半分しか語っていない、しかも、一番大事なところを語っていない言葉だと今は思います。神さまは人間を探し求める神様です。人が離れていくならば、追いかけて来られるのです。我々は、今、礼拝に集っています。神のみ前に集められています。ということは、我々は追いかけられ、連れて来られたのです。自分の決意や、偶然や運命が私たちをここにおらせているのではなくて、招きの言葉を語られる神さまによって、ここにいるのだと私は信じます。

 この教会も所属します日本基督教団が「こころの友」という伝道新聞を毎月発行しています。聖書の人物や、教会の紹介、牧師の説教や信徒の証が載っている、カラーで、どれも短文、手に取りやすく読みやすいものです。教会員の週報ボックスには、毎月一部これが配られますが、今月は、私たちにとってもなじみ深い羽咋教会の内城恵先生による短い説教が掲載されていました。

そこで内城先生は、ヨハネによる福音書1516の「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」という主イエスが弟子たちに語られた言葉を取り上げています。抜粋しながらご紹介したいと思いますが、それでも少し長くなると思います。けれども、全国版の伝道新聞に珍しく金沢のことが出ましたし、北陸学院の思い出が語られ、金沢市民にとっては、とても身近なものですから興味をもって耳を傾けることができると思います。読んでみます。

「私は石川県金沢市にあるミッションスクール、北陸学院高校の入学式で、この聖書の言葉を初めて聞きました。牧師である父の転任に伴い、埼玉県の教会から慣れない金沢の地に足を踏み入れた15歳の私の心に、最初に残った聖書の言葉です。…/金沢で生活が一変しました。それまでは音楽の道を目指していましたが、大好きだったピアノもやめて、心も体もゼロからの出発をしました。…/ある脳科学者が、自分を形作っているアイデンティティーの大きな要素は「記憶」であると述べていました。自分を形作ってきた出来事の「記憶」の蓄積によって、今の自分に至っているというのです。そのため、今までしてきた何かをやめる決断をするとき、自分を失ってしまうような、不安定な状態になる経験をすることが、誰にでもあるのではないでしょうか。/若いころに抱いていたそんな不安の中で、「あなたがたがこの学校を選んだのではない。わたしが(神さまが)あなたがたにこの学校を選んだのだ」、入学式でそのように聞かされました。そんな新しい気付きを与えられて学校生活をスタートしました。/私たちはどこかで、自分で選び取った人生を歩んでいるのだという思いを抱くことがあるのではないかと思います。でも実は、その逆なのです。学校、職場……それらは本当にあなただけの力で選び取ったものなのでしょうか。あなたが選んだのではありません。神さまの方があなたをそこにと選んでくださっているのです。神さまの方から、あなたを愛してくださり、あなたを呼んでくださっているのです。」

 実は、この内城先生の説教を読む前にも、聞いたことがありました。北陸学院では入学式の時に必ず、このヨハネによる福音書1516の言葉を聞かされるんだと。しかも、そこでこの言葉が読まれるときには、いつでもちょっとしたざわめきが起こるんだと聞きました。多くの入学者が、主イエスのお言葉に引っ掛かりを覚える。それはどんな種類の引っ掛かり、ざわめきなのか?肯定的なものなのか?否定的なものなのか?

 あえてそのざわめきの持つ色合いを、ここでは推測したり、あるいは、直接、聞いたことを、内城先生の説教以上にご紹介することはしません。しかし、これは私たち現代人にとって、確かにインパクトのある主イエスのお言葉なのだと思います。つまり、ここで、考えてもみなかった第三者の意思が、この私の今を定めているのだということを聞かされるのは、なかなかインパクトのあることだと思います。

 天職という言葉があります。私たちは天職というと、自分が心から好きで没頭できる自分の性に合った仕事、あるいは、自分の天性に合った職業のことを天職と言い慣わしていると思います。けれども、この天職という言葉のもとの意味はそのようなものではありません。これは、もともとは、改革者マルティン・ルターの職業観に由来するものです。少し古風な英語で、職業のことをコーリングと表現することがあるようですが、これは、直訳すれば、「呼ばれること」を意味します。誰から呼ばれるかといえば、神様から呼ばれること、つまり、「召命」です。英語のコーリングには二重の意味があり、職業だけでなく、たとえば、牧師への召命というときに用いられる神さまからの召し出しという意味を持つ言葉です。

 詳しく調べたわけではありませんが、この英語のコーリングの二重の意味は、ドイツ語から取られたものだと想像することができます。ドイツ語でも、職業を表すベルーフという言葉は、職業と同時に、神様からの召し出し、召命を意味する二重の意味を持つ言葉です。そして、コーリングも、ベルーフも元々は、神さまからの召し出しという意味を第一に持っていました。

 ところが、改革者マルティン・ルターがこの神さまからの召し出しという言葉を、当時は、聖職者と考えられていた牧師や、伝道者などの、教会に直接仕える人々のその仕事への召し出しに限定された言葉としてではなくて、すべての職業に対して、その仕事に従事する人のその仕事に、この神の召し出しという言葉を当て嵌めて語りだしました。つまり、神の召しを受けているのは、牧師や伝道者だけではない。全ての人が、神の召しを受けて、その仕事に従事しているのだと信じたのです。私たちは教会の中で、献身とか、献身者という言葉を使うことがあります。そして、その場合、その献身者とは、私のような牧師という仕事をしている者や、その志を与えられ、神学校に通っている神学生のことを献身者だと理解することがあります。けれども、これは、プロテスタント教会には、本当はそぐわない理解だと言わなければなりません。サラリーマンも、自営業も、主婦も、その他の仕事もどれも、一人一人に神が与えられた召命であり、一人一人は、献身者であります。ですから、私たちは、今日お読みした聖書の言葉を特別な12使徒という教会の教職にのみ当てはまる記事であると読むわけにはいきません。

しかも、マタイによる福音書自身が、その福音書において、特別な12人に言及する時には、使徒という言い方はしないで、いつでも弟子という言葉遣いをいたします。ある聖書学者は、これは、マタイが、12人の使徒と他の弟子たちの境界を厳格に区別したくはないからだと言います。皆が、主イエスに語り掛けられている弟子であるということです。さらには、今日の物語において、弟子たちが、主イエスに対して行った「従う」という行為は、直後のマタイ425において、「大勢の群衆が来てイエスに従った。」と言われた時の、「従う」と同じ言葉が使われていることも指摘されます。これらのことは、この弟子たちを招かれた主イエスのお姿は、ここにいる全ての者に語り掛ける主イエスのお姿であるということを示唆していると思います。

 さて、ここで、そのお言葉を聞いている私たち全ての者に服従を求める主イエスの求めとはどういうものでしょうか?この二組4人の兄弟が招かれたのは、人間をとる漁師になることでした。それは彼らが伝道者になることを表していると読むことができると思います。むろん、これは、今までの読み方に従えば、直接の牧師、伝道師のみならず、主イエスのすべての弟子たちがこのような漁師として召されているのだと言わなければなりません。

 しかし、この主の招きを受けた者たちがその直後に取った行動は、確かに私たちとの距離を感じさせるようなものであるかもしれません。あるいは、そのために、ここではたとえば故郷を離れてどこにでも行く伝道者のことが語られていると取るかもしれません。つまり、「わたしについてきなさい。」という主イエスのご命令を聞くと、二組の兄弟はどちらも、大切なものを捨てて、即座に主イエスに従ったのです。ゼベダイの子ヤコブとヨハネに至っては、父をも残して主イエスに従ったと記録されています。

 しかし、これは、最初のペトロとアンデレの兄弟も同じであり、彼らには養うべき家族がいたにもかかわらず、生計を成り立たせている職業を捨てて、主イエスに従ったということが、福音書の別の個所から示唆されます。しかも、これは決して彼らの心が熱するあまり、主が求めもされないことを後先考えずに衝動的に行ったということではないようです。

 私たちにとって、理解困難な聖書の言葉の一つであると思いますが、聖書は、主イエスが別の機会に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ1037)と語られたこと、しかも、一度ではなく、二度、語られるのを聞かされることになります。しかも、それは、また違った表現で、何度も繰り返される主要なモチーフといってよいほどの主イエスの言葉です。私たちは、今日読んだ聖書個所において、最初の弟子たちが、職業と家族を捨てて、主イエスに徹底的に従ったこと、また、主イエスの別の個所のお言葉を読めば、そのような服従が、主イエスへの正しい服従であると聞くと、やはり、これは、全ての弟子にではなく、特別な弟子に求められることと思いたくなります。けれども、その点では、牧師も含めて、プロテスタント教会の者たちは失格せざるを得ないかもしれません。文字通り、職業を捨て、家族を離れて、生涯独身を貫き、海外で過ごすことも辞さないカトリックの司祭、修道女だけが、このような服従をなしていると言わなければならないかもしれません。

 けれども、もう一度申しますが、この家族も仕事もカッコに入れることのできない徹底的な服従の要求は、特別な弟子に求められるものではなくて、彼の招かれる全ての者にたいしてのものであります。

 このような要求を私たちは本当に真剣に考えることができるのでしょうか?そこで、主イエスの招きの言葉にもう一度集中したいと思います。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

 まだ、取り上げていない「わたしについて来なさい。」という言葉があります。まさにご自身への招きの言葉であります。ところで、この言葉を原語に即して訳すならば、「わたしの後から来なさい」となります。この言葉を聞いて4人の者たちが作った歩みとはどのようなものであったのか?それは、何もかも捨てて、新しい人生へと歩みだすような勇ましい冒険ではなかったのではないかと思うのです。それは少しも勇ましいことではなかったのではないか?この言葉を聞き、この言葉に従う者が成すこととは、主イエスの後ろに隠れるということではなかったかと、そう思うのです。

 「わたしの後から来なさい。」

 網を捨てるとか、家族を捨てるとか、そのことが意味しているのは、わたしと仕事の間に、わたしと家族の間に、主イエスに立っていただくということを意味するのではないか?私はその主イエスの後ろに立って、それらのものと新しく出会うということではないかと思います。

 私たち夫婦は、二人の子供に既に小児洗礼を授けていただきました。私たちは二人とも、小児洗礼を受けていませんで、物心ついてしばらくして後に、自分の意思で信仰を言い表し、その告白に基づいて、洗礼を授けていただきました。それだから、物心つかない内に、洗礼を授けるということは、子どもから自由を奪ってしまうことになるのではないか?そういうことも考えなかったわけではありません。けれども、小児洗礼の歴史を学んでいく中で、なぜ、教会が子供に洗礼を授けるようになったかが、はっきりわかるようになりました。物心つかない子どもに洗礼を授けるとは、その子供は親の所有物ではなく、神様のものですと言い表すことを意味します。この子供は私の自由にできる私の所有などではない。神さまから一時期その養育をお任せ頂いているに過ぎない。

 非常に強烈な言葉で語られる網を捨て、父を残して主イエスに従うということ、そのことを強く私たちに求める聖書の御言葉は、どれほど、私たちが、神様のものを自分のものと思い込んでしまっているかの私たちの罪の深さの裏返しでしかないと思います。神のものは神にお返しし、私たちは、主イエスの後ろに回らせていただくのです。

 先々週、オリーブの里聖会というものに参加させていただき、最初に出た神学校の同窓生に10年以上ぶりに再開しました。それぞれが知っている同窓生の近況を分かち合いながら、この10年ほとんど思い出したことのない一人の人の名前を聞き、かつてその方から聞いた、証を鮮やかに思い出しました。40代になってから、神学校に来られた方でした。もともとは、学校の先生。詳細は忘れましたが、自分の仕事に躓きを覚え、その方は、学生たちに、教える自信を一時期失ってしまわれた。学生たちの前に立つのも恐ろしくなった。キリスト者であったその方は、教室へ一歩踏み出し、子どもたちの前に立つのも恐ろしく思った時、教室に入るときに、戸を開けると必ず一歩下がり、「私と共にいてくださるイエス様、どうぞ、お先にお入りください」と、心の中で言ってから入るようにして、何とか授業をこなしていきました。ある時、同じようにして教室に入ると、生徒たちが、ざわついていて、突然こう尋ねたと言うのです。「先生、先に入ってきたあの外国人は誰ですか?」その方は、今も、牧師をしておられ、私よりもよほど純粋な方ですから、それは「イエス様だった」と信じていらっしゃいます。私は、多分、気の弱い先生がいつも教室に入る前におかしな行動をしていることに気づいた学生が、先生を担いだのだろうと思います。

 けれども、これは間違った信仰ではないと思います。この目にイエス様が見えようが見えまいが、それは事実であったし、私たちの事実であると思います。

 「わたしの後から来なさい。」

 私たちをご自身の元に招かれる主とは、私たちに先立って歩んでくださる主です。それは、この私たち自身と、また、私たちと共に生きる者たちにとって、どんなに幸いな歩みとなることでしょうか。私たちは、共に生きる最も身近な者のこと、自分自身でさえ、掴んでいた手を放して、主イエスにお任せすることから始めることが許されているのです。私たちは、主イエスの背を見つめさせていただきながら歩むのです。それはどんなに心強いことであるかと思うのです。

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