主の祈り 御国がきますように

皆さんの中には、きっと面識のある方もいらっしゃることと思いますが、かつて金沢長町教会の牧師であり、現在は東京の代田教会にいらっしゃる平野克己牧師という方がいます。

 

この平野先生がもう10年以上前に、『信徒の友』という雑誌に、主の祈りの言葉を説く連載を持っていらっしゃったことがあります。それが、『主の祈り イエスと歩む旅』というタイトルの小さな本として出版されました。たいへん良い本だと思います。先々週から始めました主の祈りの説教においても、私の座右の書の一つになっています。

 

平野牧師は、その本のはじめの方で、主の祈りは、短い祈りであるけれども、案外、覚えにくいなじみにくい祈りではないだろうかと言います。

 

教会に初めて来た人が、半年たっても、まだ覚えきれないということもあると御自分の経験から言います。その理由は、この祈りが、私たちの自然な心の動きに逆らって進んでいくからかもしれないと言います。

 

そこで、とても、面白ことだと思いますが、主の祈りを言い換えて見せて、それが次のような祈りであったら、どんなになじみやすく覚えやすい祈りであったかと想像します。

 

「そばにいて下さる神よ/わたしの名を憶えてください/わたしの縄張りが大きくなりますように/わたしの願いが実現しますように/わたしに一生の糧を与えてください/わたしに罪を犯す者をあなたが罰し、わたしの正しさを認めてください/わたしが誘惑にあって悪におぼれても、わたしだけは見逃してください/国と力と栄えとは、限りなくわたしのものであるべきだからです」

 

私たちが熱心に願うのは、まず何よりも自分自身のことです。だから、「御名を崇めさせたまえ」と、神のために祈り始める主の祈りの言葉は、なじみにくいと言います。その祈りが、「わたしの名を憶えてください/わたしの縄張りが大きくなりますように」という願いで始まるならば、どんなになじみやすく覚えやすかっただろうと想像するのです。

 

そして、次のように言います。「わたしたちは、祈りとは、自分の願望を口にして神さまに知っていただくことであると考えるところがあります。けれども、主の祈りに関して言えばそうではありません。主の祈りは、生まれついてのわたしたちの心の傾きに逆らいながら、わたしたちにある特別な生き方を願ってくるのです。/主の祈りは、『祈り』と称して、自分のゆがんだ心の中にある思いを繰り返しながら、小さな生き方の中に籠城して出てこようとしないわたしたちを癒し、解放する祈りです。出口のない場所でうずくまるわたしたちを、主イエスと歩む旅へと誘う言葉なのです。」

 

私たちは、祈りというのを、自分の内側に潜っていくこととどこか考えているところがあるかもしれません。静かな祈りの内に、本当の自分の思い、自分の願いに気付き、それを神さまに申し上げることが祈りだと考えているかもしれません。たとえば、手を組み、目をつぶり、首を垂れる私たちの一般的な祈りの姿勢が、外ではなく、内側に集中していくことが祈りの方向性だと思わせるということがあるかもしれません。

 

けれども、昔の人々は、天を仰ぎ、手を空に向かって広げ祈りました。それは、祈りとは、独り言ではなく、対話なのだということがよくわかる姿勢であると思います。自分の内側に向かうのではなく、外に向かう、自分から出ていき、天におられる神さまに身を向けるのです。主の祈りを巡る平野牧師の言葉は、改めてそれに気付かせてくれる言葉です。

 

今日は、主の祈りの第二の祈願を聴いていきます。「御国が来ますように」、「神さまあなたの国が来ますように。」という祈りです。

 

これもまた、直前の第1の祈り「御名を崇めさせたまえ」、「あなたのお名前が聖とされますように」という祈り同様に、なるほど、私たちの自然な心には湧きにくい祈りの言葉であるかもしれません。

 

平野流に言えば、私たちの自然の心の流れに沿った願いは、「わたしの縄張りが大きくなりますように」ということだからです。

 

しかし、主イエスが私たちに祈るように教えてくださった言葉は、私ではなく、神さまあなたの国が来ますようにということです。この世界が、全部、神さまの縄張りになってしまいますようにという祈りだと言えます。

 

主イエスというお方が、御国の到来の祈りを教えられたことは、とても主イエスらしいことであると思います。

 

なぜならば、神の国の到来こそが、主イエスの伝道の言葉の中心であったからです。

 

主は、伝道のはじめからそのことを告げておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ115)これこそ、主イエスの携えて来られたメッセージでした。

 

この神の国は、私たちの読み続けているマタイによる福音書では、天の国、天国と呼ばれるものと同じです。

 

主イエスの語られ続けたメッセージとは、天国が近づいてきた。天国がやってきたということでありました。

 

わたしたちは天国というと、死んでから行く場所だとなんとなく考えているかもしれません。けれども、主イエスがお告げになったのはそういう天国ではありませんでした。

 

「時は満ち、神の国は近づいた」という主イエスのメッセージは、わたしたちが、天国に行くというよりも、天国が、私たちに向かって突入してきたというようにイメージすべきものだと思います。

 

この世の場所、この世の時間とは無関係に、永遠にそこにたたずんでいる天国に、我々が向かっていくのではなくて、私たちの生きる場所の、私たちの生きる時の中に、天国が突入してくるのです。

 

祈りは私たちの内ではなく、天におられる神さまに向かうと言いました、けれども、それは、この世の事柄とは関りあわないということを意味することはありません。死んだ後の天国を希望し、大地を忘れてしまうということにはなりません。なぜなら、わたしたちが仰ぎ見るべき天国は、地にやってきたからです。

 

国と訳された言葉は、ただ、国土のような場所を意味しているだけの言葉ではなく、しばしば言われるように、それは、「支配」を意味する言葉だと聞くならば、より理解しやすいかもしれません。

 

そうなると、天の国とは、神の支配のことです。「神の支配がやってきた。悔い改めて、この良い知らせを受け入れなさい。」というのが、主イエスのメッセージであるということです。

 

この主イエスの神の国を語る言葉には、二種類の言葉があります。それは、間もなく神の国は来る、もうそれは手の届くところまで来ていて、まだ来ていないけれども、すぐに来るという切迫した終末を意識させる言葉が一つ。また、それと共に、神の国は、将来のことではなくて、既に、主イエスが来られたその所で実現していると語っているものです。

 

ルカ1120にこうあります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたちのところに来ているのだ。」

 

あるいは、ルカ1720以下、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

主イエスの存在において天の国、神の支配は既に始まっているというのが、神の国に関するもう一つの記述であり、これは、ルカによる福音書、いちいち挙げませんがヨハネによる福音書、そしてまた、使徒たちの手紙に語られているメッセージです。

 

もちろん、これは、少し形を変えて、マタイによる福音書にもあります。今、私たちの生きるこの場所、この時間に突入してきた天国、既に始まっている神の支配は、マタイによる福音書では、インマヌエル、「神は、我々と共にいます」というキリストの存在と約束によって、現実とされています。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というマタイによる福音書の最後の断言とは、今、ここにある神の支配を語る言葉以外の何物でもありません。

 

そこで、私たちが、主イエスの中心的メッセージだと言える「神の国」、「神の支配」の実現について、招かれている信仰とは何かと問うならば、それは死んだ後に迎え入れられる天国かもしれないし、やがて、来る再臨のキリストによるこの世界に対する明白な権限と支配でもあると言えますが、同時に、既に、この地上における神の今ここにおけるご臨在、今ここにおける支配への信仰だと言うべきです。

 

そのことを、私たちに与えられた主の祈りの「御国を来たらせたまえ」という願いに重ねるならば、この祈りにおいて私たちが祈り願うことは、「わたしの縄張りが大きくなりますように」という願いを断念し、「わたしではなく、神よ、あなたが、わたしを支配してくださるように」という願いであることになります。

 

キリストにおいて神がやって来られ、既に徹底的に、この世に対する支配を樹立された。それは、この真の王の子、神の王子であるキリストが、馬小屋の飼い葉桶の中に生まれ、十字架にかかられるという道を歩まれた故に、未だ世の人の目には隠された王としての即位であり、支配であります。ただ、神の言葉に出会い、聖霊の助けによって、聞かされた者だけが、教えられ、信じる、隠された事実です。

 

けれども、この世への神の侵入は既に果たされ、この地上においても神の支配が既に始まっていることを教えて頂いた者たちは、神の支配の現実が、誰の目にも露わに見えないままであっても、既に、そこで従い始めるのです。

 

そこで、私たちに語られるのは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ1037)という警告の言葉であり、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ1624)という招きの言葉であり、また、「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け継ぐ」(マタイ1929)という約束の言葉です。

 

これらの言葉は、差し迫った終末に備えた文字通りの家族関係の放棄ということではなくして、今この時、この所に生きるわたしの上に述べられている神の支配のゆえに、それらのものが、自分の所有物であるかのように錯覚することから目を覚ますということです。

 

それゆえ、ある神学者は、「御国を来たらせたまえ」という祈りは、この目に見える世界に、あるいは私たち自身に覆いかぶさって、神さまの臨在、神さまの支配を隠している覆いを取り除けてくださいという祈りであるとも言いました。

 

ちょうどテーブルを覆うテーブルかけの下に、テーブルが存在するように、神の国の現実を覆っている覆いが取り除けられるように祈るのだと言いました。

 

 

人間ではなく、わたしではなく、神が支配者であることを教えてください。そのことを悟らせてくださいと祈るのです。

 

神さまだけが、真の支配者であると知らされること、同時に、全ての人間の支配を相対化することと言い換えることもできます。神の支配を信じる者は、この地上にあるどんな支配も最終的な絶対的な支配だと見ることを止めるようになります。

 

たとえば、無視や不機嫌な態度、厳しい叱責の言葉、あるいは泣き言で、自分を支配していたかもしれない親の支配が神の本当の支配の前で相対化されるということです。この学校、この就職先に行かなければ、明るい未来は拓けないと思い込ませていた塾や教師や、周りの雰囲気という壁のような支配を神の本当の支配の前に、相対化するのです。

 

上司の支配、配偶者の支配、国の支配、あるいは結局のところ、それらの支配を絶対的なものと思い込んでしまう自分の生まれながらの傾向、性格、弱さ、罪、それらを本当の神の支配の前に、小さなとるに足りないものと弁えるのです。

 

キリストが来られ、そこに神の支配が確立され、この世の支配者は力を失ったからです。

 

コロサイの信徒への手紙210にこうあります。「キリストはすべての支配や権威の頭です」。この御言葉は、次のように続きます。キリストにおいて「神は、わたしたちの一切の罪を赦し」、「わたしたちを不利に陥れていた証書を破棄し」、「もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」

 

主イエスに教わらなければ、主イエスに語り掛けて頂かなければ私たちはすぐに忘れてしまい、疑ってしまう者です。神が支配者になったというけれども、それは本当だろうか?この世の現実は、まるで神の支配などないかのようではないか?そこですぐにぐらつき、自分の支配を、自分のささやかな領地を確保することに乗りだそうとするわたしたちです。

 

けれども、わたしではなく、神よ、あなたが支配してくださいという祈りは、本当に良い祈りです。それは、わたしたちを捕らえていたもろもろの支配と権威の武装を解除してわたしたちを自由にしてくださる神の支配だからです。そこには、当然、私自身のわたしの支配も含まれていますし、私自身に対する私の支配が終わることも本当に良いことです。わたしたちは本当にしばしば、思い通りにならない自分の感情や思いや、頑固さによって、人間関係を損ない、健康を損ない、自分と隣人を損なってしまう者だということをよく知っているからです。いや、主イエスに、この祈りを教わったから、そのことがよくわかるようになったのだと言うべきかもしれません。

 

最後に、触れておきたいことは、この第2の祈りは、聖書全体の要約とも呼びうることを改めて、知るということです。この第2の祈りの言葉は、神の国を述べ伝えられた主イエスのお言葉の全体に関係するとともに、聖書の最後の文書で会える黙示録の最後の文とも響きあっている言葉です。そこには、「主イエスよ、来てください」とあります。

 

この言葉は、マラナタと言い、主イエスが再び露わな形で世界にお姿をお示しになることを求める祈りの言葉です。

 

けれども、今日特に注目したいのは、この再臨を祈る信仰は、今ある神の支配を信じる信仰と決して切り離すことはできないということです。

 

この聖書の最後の願いを納めたヨハネの黙示録という文書は、謎めいたイメージがある文書だと言えます。特別な鍵がなければ読み解けないような読む者を拒絶する秘密の文書であるかのように語られ、解釈される時があります。けれども、ここで、黙示、黙って示すと訳された言葉は啓示と訳すことのできる言葉です。ふつう、そう訳すべき言葉です。啓示というのは、英語で、revealと言いますが、これは元々隠されているものの覆いを取り除くという意味です。現実を暴露するために書かれたものです。

 

この世の現実を暴露する。その獣性、その悪魔性を徹底的に暴露するものだから、恐ろしいのです。

 

救い主、神を自称するローマ皇帝が、悪魔の手先になった獣に過ぎないこと、真の救い手ではありえないことを、暴露するのです。

 

けれども、黙示録には、悪魔的な力がこの世で力を揮っているという以上に、もっと伝えたいことがある。それは、子羊なるキリストが既に天において即位されているということです。

 

激しい迫害の中にある信仰者たち、彼らを取り囲む状況が獣のような人間の支配だと暴露されつつ、しかし、そのさなかに覆いが取り除かれ、天の現実が示されます。黙示録512天使たちは大声でこう言った。「屠られた子羊は、/力、富、知恵、威力、/誉れ、栄光、そして賛美を/受けるにふさわしい方です。」

 

天地の主であり私たちの主でおられるお方は屠られた子羊のような方、十字架を通られ復活された主イエスです。

 

その方は、子羊である支配者です。死なれ、しかし、よみがえられた柔和な王です。それは、どんな苦しみも死さえも、わたしたちに対する、この世界に対するこの方の支配を崩すことはできないということです。

 

わたしたちが「御国を来たらせたまえ」と祈るのは、いつでもキリストの支配のこの現実に目を開いて下さいと祈ることです。そのことが、今日もまた、わたしたちに示されますように。そのことを信じさせてくださいますように祈るのです。

 

そしてまた、その祈りが祈られるところで生まれるわたしたちの生活は、既に、神の支配を告げるものとなるはずです。もはや、全ての人間的な支配を真剣に受け止めることなく、ただ、神の支配に服する者として、軽やかに、生き始めるのだと思います。

 

そして、どんなに真剣に、自分の支配を決定的なものと考えている者も、やがては、明らかになる最終的な神の支配、今既にある神の支配のもとに、健やかに膝を屈めることのできる時が来ることを、その者に変わって祈り待つ務めをこの地上で誠実に果たしていくのです。

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