キリストは真の幼子でおられた

マタイ2:13-23

 私は聖書を読むとき、その物語の枠から飛び出して読むということは、あまり良い読み方だとは思わない方です。聖書は聖書のまま読むべきだと思います。近代以降の聖書学者が、たとえば、4つの福音書を読み比べながら、どれが一番、歴史的事実に近いのかとか、マタイとルカを比べながら、どちらが実際に主イエスの語ったことに近いのかとか、あるいはそもそも主イエスが本当に語られたことはどの言葉で、それ以外のものは、教会の創作の言葉だと言って読む読み方を、聖書を生ける神の言葉として読むために不可欠な読み方だとは思いません。今の形で私たちの手元に与えられている聖書が何を語っているか?何を語ることを意図しているか?福音書記者を聖霊が導いて語らせてくださり、そして教会を生み出した生ける神の言葉であるその聖書そのものを大切にすべきだと考えます。

 けれども、そのような前提に立ちながら、今日の個所に関しては、説教準備の過程で定評のある学問的な注解書を手に取り、「われわれの物語は、ほぼ確実に非歴史的」なものであるという記述を見た時に、正直、ほっとする思いを感じてしまいました。

 ヘロデ王は、歴史に名を残す存在です。彼の生涯とその行動は、比較的歴史文書に正確に残っています。けれども、ヘロデの晩年に当たるこの時期に、ベツレヘムとその周辺の男児を皆殺しにしたという証言はありません。彼が自分の王位を脅かす親族、家族を殺したこと、死の直前にユダヤ人の指導者たちを殺す命令を出し未遂に終わったこと、それらのことは記録されていますが、子どもの虐殺の記録はないようです。それゆえ、学者はこれは史実としての信ぴょう性は薄い記述だと言います。

 そして多くの学者は、一人の偉大な人物が生まれる時、その命を付け狙って偽物の王が策略を巡らすという物語は世界中に存在するということを指摘します。一覧表にして見せてくれる人までもいます。それは、実は旧約聖書の中にさえあり、あのモーセがそうであったと指摘されます。モーセもまた、誕生の際に時の権力者から殺されそうになったのです。この主イエスの誕生と、ヘロデ王による幼児虐殺の物語は、そのようなよくある伝説的物語によく似ているという説明を読みながら、それが歴史的事実である可能性は薄いという学者の意見に安堵しました。キリストの誕生が幼子達の犠牲を呼び起こしたというのは、無かったことだから、天使を送って、キリスト同様、その幼子たちを神は助けるべきだという批判はそもそも成り立たないのだというわけです。

 けれども、これは、とても短絡的な安心であると言えるかもしれません。確かに主イエスの誕生を巡って、実際に幼い子供たちが殺されるという悲劇は起こらなかったのかもしれない。そして、その意味では、主イエスの誕生の際に巻き添えを食って無関係な子どもたちが殺されるのをただ黙って見過ごしにされた神様を責めたり、疑問に思ったりする必要はないかもしれない。けれども、それはやはり、根本的な解決にはなっていないのではないかと思うのです。たとえ、2000年前のクリスマスの時、主イエスの誕生を巡って実際に子どもたちが死んだのではなかったとしても、そのような出来事は、その時には起こらなかったとしても、子どもであろうが、大人であろうが、ヘロデの時代も、私たちの生きる今この時も、不条理な死の現実は、この世界にあるではないかということです。事件、戦争、自然災害、事故、いや、もっともっと身近に病気によって、幼い子どもがなぜ死ななければならなかったのかという問いから私たちは全然自由ではありません。

 そして、私たちは、そんなとき思います。そのような不条理な死に神はやはり責任があるのではないか?あるいは、少なくともその理由をお答えになるべきではないか?キリストが幼子としてお生まれになったこの世界には、天使たちに守られているようには見えない、不条理な出来事が起こる現実があります。

 しかし、それだからこそ、この福音書が、ヘロデ王による幼子たちの死をキリストの誕生に関係づけて語ったということは深いものがあると感じます。キリストの誕生とは無関係であったかもしれないけれども、空想であるとは決して言い切れない幼子たちの不条理な死が、キリストの出来事に結び付けられるのです。

もしも、ヘロデがここで喋ることができれば、言ったに違いないのです。「確かに自分は、大勢の人間を苦しめてきた。多くの人間の命を奪った。その中には、名前も知らない顔も見たことのない普通の人々が大勢いた。けれども、キリストは殺そうと思ったことがない。この件に関しては、自分は無関係だ。」この物語が歴史的信ぴょう性が薄いということはそういうことです。ヘロデは、イエス・キリストという人物を目指してわざわざ殺そうとした自覚はもたなかっただろうということです。

 けれども、聖書は、違います。ヘロデは、イエス・キリストその方を殺そうとしたのだと主張します。これはどういうことなのでしょうか?それは、神のまなざしにおいては、ヘロデがその生涯において殺してきた無数の人々、その人々は、キリストの誕生と関係があると語っているということではないでしょうか。自分の権力を守ろうとして人々を苦しめ、人間を死に追いやるとき、それは、私を苦しめることであり、死に追い詰めていることだと主イエスは仰るということではないでしょうか?ここには、ビデオカメラを回せば単純に写る事実ではなくて、非常に神学的な真実が、映し出されている聖書個所ではないかと思うのです。

 つまり、ここに描き出されている物語が語ろうとしている真実は、まさに主イエスが、裁きの日に明らかになる真実としてお語りになった真実、マタイによる福音書25:34以下の言葉の実現を先取りするものではないかと思うのです。それはこういう主イエスの御言葉です。

「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見て、お着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 今日の聖書個所を聞くということは、無関係な幼子が殺されるのを見殺しにする神はひどいではないかと抗議することでもないし、まして、何が歴史的事実で何がそうでないかと問うことではないと思います。そうではなく、キリストは、人間の歴史において実際に起こって来た不条理な死を死ななければならなかった幼子に極めて似ているということに気付くことだと思います。しかも、この言い方はまだ正確ではありません。私たちの物語は、父ヨセフの夢に現れた天使のお告げにより、幼子イエスが死を免れました。その点では、殺された幼子たちと、あるいは、同じように不条理な出来事に遭遇することのある私たちと決定的に違うようにも見えます。けれども、それは、神の助けを得た主イエスと、それ以外の人間との違いを際立たせるものなのでしょうか?私は、そうではないと思います。その天使の助けを得て、ヘロデ王の残酷な手による死を免れた幼子の道は、真っすぐに、十字架に進む道でありました。その真っすぐに十字架に続く道のりにおいて主イエスは、病める者、悲しむ者、罪人、つまり私たち普通の人間の友となり、その一人に数えられました。

 幼子として生まれ、十字架に至るまでの福音書が記述する主イエスのそのお姿はまるで、大きな網を打つようにして、誰も御自分の救いの業から洩らすまいと歩まれた主イエスの歩みではなかったかと思うのです。幼子のままでは終わらなかった、この後も福音書が語っていく、そのお方の御生涯を見る時、間一髪難を逃れた神の守りの内にある幸運なお方の姿を見るのではなくて、主イエスのその後の歩みは、ただ、ベツレヘムの幼子だけでなく、少年も、青年も、成人も、この方の兄弟として数えいれるための歩みだったのだと、より深く納得できるのではないかと思うのです。

 世界に不条理な出来事が起こることを許される神は正しいのか?という問いは、神義論と呼ばれる問いです。不条理なことが起こる理由という意味では、この問いに一つの納得のいく解答を聖書から聞き出すのは、難しいことかもしれません。けれども、一つだけはっきりとしていることがあります。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と終わりの日に仰るお方は、終わりの日だけではないのです。まさに、今この時、私たちと一緒に、不条理を引き受けてくださるお方なのです。

 18節にある、子を失った母たちの苦しみの声を代表しているのは、エレミヤ書31:15以下の預言者エレミヤの言葉です。預言者エレミヤの時代、北王国イスラエルが、アッシリアという国に滅ぼされ、捕らえられ、連れられて行く姿を見ながら、イスラエル人の基である母ラケルが墓から泣いているというイメージを語る言葉です。ラケルは、創世記に記されたヤコブの妻であり、ヨセフの母です。聖書を読んだことのある方はわかります。このヨセフは、兄たちに嫉妬の末に穴に落とされ、通りがかった奴隷商人に捕えられ、家族から引き離されエジプトに売られたのです。行方の知れなくなったヨセフに関して、両親には、獣に殺されたと告げられていたのです。そのエジプトに連れていかれたヨセフの姿と、アッシリアに連れていかれるヨセフの子孫であるイスラエル王国の住民の姿が預言者エレミヤの目に重なっています。外国に引かれていくイスラエル人の姿を見るとき、息子は獣に殺されたと信じる母親の慰められたいとも思わない嘆きの出来事がここに起こっていると見ているのです。

 けれども、このマタイに引用されるエレミヤの預言が語る慰められることのないその嘆きは、実はそのままでは終わっていません。預言の言葉はこう続きます。

「主はこう言われる。/泣き止むがよい。/目から涙をぬぐいなさい。/あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。/息子たちは敵の国から帰って来る。/あなたの未来には希望がある、と主は言われる。/息子たちは自分の国から帰って来る。」

 預言者エレミヤは、まさに今捕囚に連れて行かれる最中に、やがて、イスラエルの子らは帰って来ると約束される神よりの回復のメッセージを語りました。なぜなのか?なぜ、これから苦難の地に連れて行かれようとする人々を見ながら、エレミヤは回復を語ることが出来たのか?その根拠は唯一つでした。エレミヤ書31:20の言葉です。

「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。/彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。/彼のゆえに胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」

 エフライムと言い換えられる北王国イスラエルの民の回復をエレミヤが語ることが出来たのは、ひたすら神の愛のゆえでした。エレミヤは見つめています。神は、苦しむイスラエルを見ていると我慢できなくなってしまう。たとえ、それがイスラエルの罪のゆえの、神が下した裁きとしての苦しみであったとしても、神は、その民の苦しみを見ていると胸が苦しくなり、憐みを我慢できなくなってしまう。だから、エレミヤは言います。「あなたの未来には希望がある。」「息子たちは自分の国に帰って来る。」

 ヘロデ王によって命を奪われたベツレヘムとその周辺の2歳以下の男児と、その母親たちにとって、このエレミヤ書の続く預言の言葉は果たして意味のある言葉と言えるのでしょうか?そしてそれはそのまま、全ての不条理の死や苦しみを堪えなければならないすべての人にとって、やがては死ななければならない私たちにとって、この預言の続きは意味があるのか?という問いに繋がると思います。彼らは、ヨセフとは違い、事実、死んでしまったのです。私たちは、死に結ばれた存在なのです。

 そして、私たちが、この福音書を読み進めていくのならば、この預言者エレミヤの続く預言の言葉は、まさしく主イエス・キリストの出来事において貫徹されたのだと語られていることを知ることになります。主イエスは、十字架で死なれ、3日目にお甦りになられたのです。死の棘さえも、打ち砕かれました。

 私は、以前にも申し上げました。聖書の語るところによれば、十字架で死なれたキリストが三日目に甦られたという事件は、私たち人間とは無関係なところで起きたことではないと。キリストは神の子だから死んでも甦るだろうということではないと。そうではなくて、キリストのご復活の出来事は、徹底的に私たちのための出来事であった。簡潔に言えば、私たちが甦るための出来事であったと言いました。もしも、私たちが甦らないとするならば、キリストは甦らなかったのだと使徒パウロは言いました。

 なぜ、私たち人間とキリストは一体の関係にあるのか?もう一度、私たちのこととして申します。

 神の愛のゆえです。神は、苦しむ私たちを見ていると我慢できなくなってしまうのです。たとえ、それが私たちの罪のゆえの、神が下した裁きとしての苦しみであったとしても、神は、私たちの苦しみを見ていると胸が苦しくなり、憐みを我慢できなくなってしまうのです。

 今日まで、3回にわたり、普通ならば、クリスマスに聞く聖書の言葉を聞いてまいりました。けれども、これはただクリスマスに聞けばよい話ではないということが、お判りいただけたのではないかと思います。これは聖書のメッセージ全体であるとも言えます。

 イエス・キリストの誕生の物語が語るのは、神は私たちへの憐みを我慢することができないということです。イエス・キリスト誕生とは、私たちの苦しみを我慢できない神の憐みが、結晶化したその出来事なのだということを、知るべきなのであります。その神の憐みが、十字架とそれに終わらず復活に至るのは、至極、当然のことなのです。真の神の子であるキリストは、真の幼子となられました。神が私たちの滅びを願われないからです。

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