キリストの人間 人間のキリスト

大澤正芳牧師 交換講壇説教 9月15日

コリントの信徒への手紙Ⅰ15章:12~20

初めに、週報の中にお配りした、ハイデルベルク信仰問答の問45をお読みしたいと思います。

問45 キリストの「よみがえり」は、わたしたちにどのような益をもたらしますか。

答  第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、

そうして、御自身の死によって

わたしたちのために獲得された義に

わたしたちをあずからせてくださる、ということ。

第二に、その御力によって

わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、

ということ。

第三に、わたしたちにとって、

キリストのよみがえりは

わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの

確かな保証である、ということです。

吉田 隆訳 (新教新書252 新教出版社)

今年も、連合長老会の交換講壇として北陸連合長老会所属のそれぞれの教会において普段と違う牧師が

立って説教をいたします。それぞれが読む御言葉は、何を読んでも良いのですけれども、今お読みしました、

ハイデルベルク問答の同じ個所を説教の冒頭において読むという申し合わせだけをしております。

聖書と共に、その御言葉を真っすぐに読むためのガイドとして、改革長老教会が大切にしてきた文章の

一つでありますハイデルベルク信仰問答を読み、置かれた場所は違えども、同じ一つの信仰によって、

生かされているんだ、そのことを確認しながら礼拝を捧げます。

この教会の皆様は、どれくらいこのハイデルベルク信仰問答という古い教会の信仰告白の言葉に親しんでいらっしゃるか。受洗準備の時に、牧師と一緒にこの信仰問答を読んだという経験のある方もいらっしゃるかもしれません。少なくとも、年に1回はこの交換講壇の場で実際に、まあ短い箇所ではありますけれども耳にしていらっしゃるわけなので、まったく、馴染みのないということはないと思います。

あるいは、その全体像は良く分からくても、最初の問いと答え、

問:「生きているときも死ぬときもあなたのただ一つの慰めは何ですか?」

答:「それはこの私が身も魂も、生きているときも、死ぬときも、私のものではなくて、私の真実なる救い主イエスキリストのものであることであります。」

という、この印象深い言葉だけは心に刻んでおられる方も少なくないかなと思います。

こういう今お読みした、問1とその答えのような言葉を読みますと、私たち改革長老教会の信仰を持っ

て教会の歩みを形づくって行こうと願っている者たちが大切にしていることっていうのは、教会の教えを

きっちりと語る教理の言葉を重んじていこうという姿勢でありますけれども、教理を重んじるっていうこ

とは、何も堅苦しいことではなくって、元気を与えられることなんだということが良く分かってくるような気がします。

「私は、生きているときも、死に直面しても、キリストのものなんだ。キリストというお方が、この私の

責任者なんだ。」そのことを、おぼろげではなくて、告白することができる。それは慰め深いことです。

そういう言葉にひきつけられまして、もしも皆さんが、ハイデルベルク信仰問答なかなか良いんじゃないかって思って読み始めてみますと、またそこで、ある特徴的な言葉にぶつかり、その言葉の前に立ち止まる、

という経験をされるだろうなと、私は思います。それは、この信仰問答が、「益」「利益」という言葉を、随所に語るということであります。あちらこちらに「利益」という言葉が出てくるんです。

私たちはよく、自分たちの信仰っていうのはご利益宗教ではないっていう言い方をすることがあります。

「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」。私たちが聖書の神様を拝む理由っていうのは、こういうものを頂くためではないって申します。我々の信仰っていうのは、そういう軽薄な御利益信仰とは一線を画すものだと、そのことを誇りにもしています。

けれども、こういう常識的な理解とは違いまして、ハイデルベルク信仰問答っていうのは、意外にも信仰

の利益っていうことをしばしば語るんですね。まあ、しかし、考えてみれば、私たちの心を強く動かす問1

とその答えからして、私たちの生死を超えた「慰め」、死をも乗り越えさせる「慰め」という、私たちの利益を問うていたのです。教会の信仰というのは、利益度外視ではないんですね。

私たちが、この信仰を選んで、この信仰の中にいるっていうことは、別にですね、色々な宗教を比較した上で、どの宗教が一番自分の利益になるかなっていうことを、見定めた上でこの信仰に入った訳ではないと

思うんですよ。

そういうことではなくて、選びの主体というのは、主なる神様であり、その主なる神様の方が自由に私たちを選んで下さり、教会に結び付けて下さって、今、我々がここにいると。けれども、私たちをこのように自由にお召しになった神様というのは、利益を与えて下さらない方ではないんですね。きちんと利益を用意してくださる。

主なる神様のものとして生きるということが、実はこれ以上にはない、人間としての有益な生き方をしているということです。このことに気づかされるということだけで、ハイデルベルク信仰問答というのは、じっくりと学ぶ価値のある文章だと、私は思います。

今日、冒頭で、それぞれの教会で読まれています。問45の問と答え、もう、お気づきのことと思いますけれども、この問いと答えも、神の下さる「利益」。しかも、ほかの誰でもない、この私たちのための利益ということを問うて、そして答えております。

「問:キリストのよみがえりは私たちにどのような益をもたらしますか。」

そしてその続く答えは、これは本当に、しつこいなと思うんですけれども、

「答:私たちのために、私たちをあずからせ、私たちも今や、私たちにとって、私たちの祝福・・」

というふうにですね、短い文章の中で、私たち、私たち、私たち、と、しつこいくらいに言うんですよ。

つまり、キリストのご復活というのは、私たちと離れた遠いところで起きていることじゃなくって、この私たちに関係のある事なんだって言っているんですよ。

これほどまでに、キリストのご復活と、私たちの利益と結び合わせて理解することを、私たちの信仰の

常識としていいんでしょうか?

これは、ちょっと新鮮な理解ではないかって思うんですよ。と言うのは、私は牧師をしていて次のような言葉を聞くことがたまにあるんですよ。聖書の語る『罪』っていうのは分かる。それが許されるっていう恵(めぐみ)も分かる。けれども、私たちが死して後(のち)、復活するっていうことは良く分からない。天国へ行くっていうのは分かる。でも、死んで後(のち)、この身体がよみがえるっていうのは良く分からない。その一方で、主イエスと言うお方がご復活するというのは分かる。これは良い。このお方は神の1人子だから、子なる神であられるから、当然、ご復活もなさるだろう。キリストのご復活というのは、キリストが真の神の一人子であられたことを、世に示す証拠だったであろう。今日読んだ問45の答の第一というのはそういうことを語っているだろうと思います。

しかし、聖書の語る、もう一つの復活の約束である、この私の復活。私たちの復活というのは、なかなか信じられない。私は死んだ後に、永遠に生きることにいられればそれで良いんだ。そう思っている。これは、ただ、信仰を求めて、今、求道生活をしている方のみならず、案外、洗礼を受けたキリスト者であっても、そういう心持ちでいるっていうことは案外あると思うんですよね。

キリストのご復活はキリスト御自身のため、キリストが真の神であられることが、誰の目にも確か

になると。いずれにしても、全くダイレクトに私のためなんだ、直接私の利益がそこに見えるんだとは

なかなかなりにくいかもしれません。

ところが、ハイデルベルク信仰問答は、キリストのお甦りを語ることは私たちの利益を語ることだ、と

言うんですよ。しつこいばかりに、私たち、私たち、私たち、ってキリストのお甦りを考えるとき、自分自身のことをいつでも考えなさいって招くんですよ、とても新鮮だなって思います。

けれども、この新鮮さっていうのは、ハイデルベルク信仰問答が考え出した、創作した新鮮さではないって思うんですよ。実は、聖書が語っていることです。

そこで、今日はコリントの信徒への手紙Iの第15章12節から読んでいただきました。それは、こういう

言葉から始まりました。

12キリストは死者の中から復活した、と宣(の)べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった

はずです。」

パウロという人が書いた文章ですが、パウロはこう言っているんです。

「コリントの人たちよ、あなたがたは復活が無いと言っているね?それならば、あなたがたはキリストの

ご復活も否定していることになるね?17節 キリストが復活しなかったのならあなた方の信仰はむなしい。

キリストが復活されなかったのに、あなたがた今クリスチャンやっているなら、19節 私たちはすべての人

の中で最も惨めなものだ。パウロはそういうふうにここで論議しているのですね。

そうだ、その通りだ、パウロさん、キリストのご復活を否定するクリスチャンはクリスチャンに限らない。

なにせ、歴史的にも、実は、クリスマスが最初に祝われたんじゃなくって、イースターが教会の中で祝われだしたんですよ。クリスマスが祝われだしたのは、イースターよりずうっと後なんですよ。

そのこと一つを考えるだけでも、主イエスの復活を信じなかったキリスト教会というのは、歴史的に存在

しません。それを納得される方も多いと思います。パウロの語る言葉を考えても。

イエスキリストのご復活こそ、私たちがそのことを本当に心から喜んでいる、十字架の罪の赦しが真の効力を持った神の赦しであるところの証拠だ。主のご復活こそ、私たちの信仰が立つか倒れるかの、まさに

重大事項だ。それはその通りですよ。キリストの復活を信じない教会の信仰など有り得ません。

それを否定してしまったら、これは分かりやすく教会の道とは別の、異端の道に踏み込んだことになります。このように考えて、パウロの言っていることはその通りだなと、一方では思いつつ、実はこのパウロの

論じ方、これ、コリントの教会員にとって、必ずしもピンと来るものではなかったんではないかな。説得力

のあるものではなかったんじゃないかなと私は思うんです。というのは、それは、キリストのご復活の信仰

がコリント教会のような初代の教会で、まだ、はっきりとしなかった、教会の生命線だと確立されていなかったということではないんです。まだ、その点で議論があったという訳ではない。

パウロの論じ方が「死者の復活などない」と主張している人々にとって、必ずしも説得的ではなかった

だろうなって私が思うのは、いいですか?ここ大事なところですけれども、コリント教会のクリスチャン達は別に、イエス様のご復活を否定していたわけではなかっただろうと思うからです。「死者の復活などない」という主張は必ずしも、イエスキリストのご復活の否定じゃ無いんです。彼らが信じなかったのは、キリストのお甦りではなくて、おそらく、我々人間の死んだ身体の復活のことであります。私たち人間の甦りを信じていないんです。

そして、彼らは、私たちが思うほど多分いい加減な信仰者ではなかったと思います。

17節に、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中

にあることになります。」っていうこの言葉から推測すると、逆に、彼らは、罪の赦しを大切にしていたと

いうことが分かります。そして、おそらく、罪の赦しを信じた彼らの信仰にとって、キリストのご復活と

いうのはなくてはならない事だったと思います。

さっきも言いましたけれども、キリストが葬られてから、三日目に死人の中からよみがえってくださった

からこそ、その方の十字架が私たちの罪を取り除くために、神が引き起こして下さった、天の神が導いて

下さった出来事であるっていうことがはっきりするからです。

キリストが、死んで滅びてしまうようなただの人間ではなかったからこそ、この方が復活してくださった

からこそ、キリストの十字架というものが、私たちの過去・現在・未来のすべての罪を取り除く力がある事

が、はっきりと分かるようになった。そう語ると思います。

そういう事を確認していきますと、「死者の復活はない」と言った人々は、それほど私たちと違う異端者だという訳にはいきません。

場合によっては、現代に生きる私たちなんかよりも、はっきりとそのことを確信しているんですよ。キリストのご復活を信じる信仰はゆるぎない。けれども、自分たちの復活は信じていない。死んで葬られたのち、やがては私達もキリストと同じように、墓から起き上がるんだ、とは信じていません。キリストのご復活と私たちの復活は別物、同レベルでとらえられるものとは考えてはいません。

けれどもどうでしょうか?こういう分け方、こういう感覚っていうのは私たちの感覚と全然噛み合わないものですかね、違うものですかね?そうはっきり言えますかね?

先ほど触れましたように、私も次のような言葉を聞くことがあるんです。

「聖書の語る罪もわかる。その赦しの恵みもわかる。けれども、私たちが死してのちやがて復活するという

事は良くわからない。」「主イエスが復活されるというのはいい、このお方は神の一人子だから、当然ご復活もなさる。だけれども、私が墓に葬られたのち、やがて、よみがえる事があるのか?」

コリントの教会の人々の信仰っていうのは、まさに、そういう信仰だったかなと思います。だから、

パウロの論じ方っていうのは、ちょっとすぐには心に響かなかったんじゃないかなって思います。

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そうであれば、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたの罪は赦されていない。キリストの復活を否定しながら、なお、クリスチャンであるっていうならば、これはこの世の中で、最も惨めな者じゃないか?」

こういうパウロの言葉を聞きながら、戸惑ったんじゃないかな?って思います。自分たちの言葉、誤解されているって思ったんじゃないかなって思います。パウロの言葉は、ちょっと乱暴すぎるって思ったんじゃないかなって思います。

実際、自分たちの身体のよみがえりを信じない彼らの信仰というのはどういうものだったのか?なお、

どんな慰めがあったというのか?ある聖書学者は次のように言います。

「コリントの人たちは、しごく、単純に、イエスの名において祝福のうちに死んで、残りのすべてを安心

して愛する神様の御手におまかせするという希望によって、心慰められ始めていたのだろう。」

これは、耳で聞いだだけでは分かりにくいと思うので、私なりに理解しますと、つまり、死んでもその魂が神の御許にいくならば、その魂が永遠に天国に過ごせるならば、それが永遠の命であり、人間の慰め、救いだと信じた、ということだと思います。

そんなに分かりにくい言葉じゃない。そんなに理解できない考え方ではないと思います。そんなに間違っているってはっきり言える事なのかなとさえ思っちゃう。だって、私たちだって、身体のよみがえりよりも、天国に行くことを慰めにしている節があるからだろうと思うからです。天国に行けさえすれば、その慰めがあれば、身体のよみがえり、関心事にならないかもしれません。

しかし、パウロは言うんです。

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった。そして、キリストが復活しなかったなら私たちの宣教は無駄であるし、あなたの信仰も無駄だ。死者が復活しないなら、キリストも復活しなかった。キリストが復活しなかったならあなたがたは、なお、罪の中にある。」

パウロは我々ただの人間のあり方と、特別なキリストのあり方を一緒くたにしております。

どうしても、切り分けて考えることをしない。「死者が復活しなかったなら、キリストは復活しなかった。」これ、パウロは分けて考えられない、どうしても。これちょっと単純すぎる三段論法でコリント教会の人々に挑みかかっている気さえするんですよ。

「死んだ者は復活しない、キリストは死んだ、だからキリストは復活しない。」そうなっちゃう。でも、このパウロの論じ方っていうのは、コリントの人々にとってみれば、キリストの尊厳というのを、あまりにも我々人間の側に引きずり下ろしているようにさえ見えるのかなって思いますね。人間と神の一人子であるイエス・キリストをあまりにも同一視しすぎているように見える。人間の、この我々人間の自然な成り行きと、キリストの自然、人間の運命とキリストの運命。これ、同じものに見すぎているような気がする。

我々人間の死んだ先の運命と、十字架で死なれた神の御子のあり方と同一視することはやっていいのかなと。死んだあとに、いつか自分は復活するとは思えないと語る者に向かって、死者の復活を信じないなら、お前はキリストがご復活されたのを信じないのか、と迫るのは、少々乱暴すぎるかもしれない、そう思えます。

けれども、もちろん、パウロっていうのは乱暴だったんじゃないと思います。また、コリントの人々の主張を誤解していた訳でもないと思います。あるいは、パウロは、キリストの神たることを低く考えすぎているって訳ではないと思います。そうじゃない。

神が示して下さった、良き報せ。キリストにおいて、神が人間に施された恵みっていうのは、その神の

一人子がわたくしたち人間の運命をご自身の体と魂において、丸飲みにされ、その方がわたくしたちと

全く一つとなってくださり、神の子の歩みがわたくしたち人間の歩みとなってしまっているんだ。そういう

福音をパウロは聞き取っていたのであります。

コリントの人々よ、わたくしたち、この滅ぶべき人間の歩みと、子なる神の歩みは今、完全に一つとなっているんだ。なぜならば、主なる神の憐れみが、キリストの道とわたくしたち人間の道を一つにしてしまわれたからだ。それこそが、キリストの出来事だったんだ、キリストの出来事はそれ以外のものではないんだ。

だから、「死者が復活しないのなら、キリストは復活しなかったはずです。」なんて言うんです。

キリストの出来事は、何一つ我々のためなんかじゃないってことを考えてないからですよ。

クリスマスの飼い葉桶の誕生であろうが、十字架の死であろうが、ご復活であろうが、天に上げらること

であろうが、主イエスキリストの出来事でわたくしたちのためでないことはたった一つも無いんですよ。

たった一つも無い。キリストの出来事っていうのは全部わたくしたちのためになされたんですよ。

そのことを、パウロは骨身にしみて教えられている。

だから、ハイデルベルク信仰問答もきちんとこの信仰を受け取りました。キリストのご復活が私たち

に向かって、わたしたちのために、まさに、わたしたちの初穂として起こったわたしたちの復活という利益

をめざした出来事以外ではないんだ。

それが、「死者が復活しないのなら、キリストは復活しなかったはずです。」との言葉の本当に言いたいことです。

死者がよみがえらないということは、即、キリストはよみがえられなかったということ。キリストがよみがえったと言うことは、即、死者がよみがえるのだ、ということ。問答無用のこのパウロの主張は、キリストの一挙手一投足のすべてが、我々のためにある、キリストはご自分の歩みと、わたくしたち人間の歩みを全く一つのものとされてしまったという驚くべき主張なのです。キリスト者というのは、キリストのもの、神のものという意味です。

ある神学者はさらに突っ込んで言います。わたくしたち人間はキリストの出来事以来、自分の事を単独の人間と考えることができず、キリストの出来事以来、人間というのはいつでも神の人間、キリストの人間として考えなければならない。

人間とは何者か?と人間論を問う時、ただ人間の事を眺めていれば人間のことがわかってくるのでは

なく、キリストの出来事以来、キリストを見ないと人間というのは分からない。私たち人間は、キリストにある人間なんですよ。キリストに結ばれたわたしたちなんですよ。単独のわたしたちなんていないんです。

けれども、同時に、それは、また、逆から言えば、神はただ神であるのではく、キリストの

出来事以来、人間の神としてのみ知られる方となったんだ、とこの神学者は突っ込んで言います。

神様というのも、単独で考えることは出来ないんですよ。神様を考えるときに、いつでも、わたしたち、人間の神だけなんです。神様とわたしたちが発音するとき、その方の事を考えるとき、わたしたち人間のための神様としか考えられない。そういう神様になってくださつた。キリストは。

「私たちの復活がなければ、キリストの復活も無いんだ」というほどに神と私たちはキリストにおいて

一つに結び合わされちゃっている。

キリストの復活をこのようにわたしたちと一つのものとして語られるパウロの言葉を聞いていて、わたくしは、神というお方は、わたしたちが考えるよりも、ずっとずっと広いところにわたしたちを連れ出して下さったお方なんだっていうことに改めて気づかされます。

その意味で、まことに我々の信仰というのは、御利益信仰なんていう小さなものじゃないなと思います。

御利益信仰とは何かと考えてみると、結局のところ、わたしの小さな望みを、神仏にかなえて頂くことだろう

と思うんです。そこに、その一つ一つが持っている望みっていうのは、ほんとうに些細な微々たるものだと思うんですよ。けれども、イエスキリストにおいてわたしたちに出会われる神っていうのは、わたしたちの小さな願いや想像を超えてしまわれる。私たちは、もしかすれば、死んだ後に、天国でずっと生きられればいいやって思っているかもしれないけど、そういうわたしたちの希望を超えて、神は身体のよみがえりを約束されている。神様は、わたしたちが想像するようなわたしたちが欲しがっている御利益を超えて、わたしたちが想像もしなかったような、願ってもいないような、頼みもしないような、しかし、本当の私たちの利益を与えて下さる。

キリストは初穂であります。最初の者ののちには続く者がいます。死の力は強く、説得的なものであります。死んだら滅びる。死んだらこのからだは焼かれれば、骨になれば、塵になれば、もう二度と元の身体は与えられない。それはそうですよ、こういう現実的な言葉に説得されてますよ、わたしたちは。

けれども、キリストがなさったことで無駄なことは一つも無かったと信じるなら、神の愛の性質が敗れる

ことはないと神を神として拝む者は、たとえどんなに死の力が強く、説得的でそれはまさに自分のこと

として味わわなければいけないとしても、敢えて、体のよみがえりを信じなければならない。

しかもその時、わたしたちが死者の復活、身体のよみがえりを信じるというのは、わたしたちがそれを信じたいからではなくて、神がわたしたちの復活を願っていて下さるからということを弁えるべきです。

わたしたちのこの身体が滅びちゃって、魂が天国で永遠に生きればいいとおもっているかもしれないけれども主なる神はそれでは満足できないんだ。わたしの全存在、やがてガタが来て、自分だってもう脱ぎ捨てたい、もういらないって思うこの身体が無くなってしまうことを、滅びてしまうことを、しかし神は望まれないということを弁えるのです。

そのために、キリストを血と肉をそなえたものとしてこの世にお贈りになり、十字架と復活の道をひたす

らほかの誰のためでもなく、わたしたちのために、歩ませて下さいました。

パウロは同じコリントの信徒への手紙Ⅰの12章27節で、次のように言います。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

わたしたちの初穂であり、頭であるキリストは、墓から出られ、そしたら、当然、その手も足もそれに

続くのであります。体はつながっているんですよ。頭が出てくれば、腕も、肩も続かざるを得ない、たとえ常に地中に横たわっていても、頭だけということではなくて体全体がこれに続かないわけは行きません。祈ります。

 

主イエスキリストの父なる神様

わたくしたちの願いと望みを超えて、いつでもわたくしたちに本当に良いものを下さるあなたであり、

全くわたくしたち、人間のための神であることを選んで下さったあなたであることを、この朝、

北陸の八つの教会で心を合わせて共に聴くことができたことを感謝します。しかも、これは、ただ八つの

教会だけではなくて、すべての教会に与えられているあなたからの約束であります。

わたくしたち、北陸連合長老会に所属する教会が、「天国での魂での永世」という、水増しされた、飲みやすい福音ではなく、「体のよみがえりを信じる」という、濃くて、栄養にあふれる、ご復活の主イエスの福音を真っ直ぐに語り、真っ直ぐに聴き、そのことによってこそ、全国の教会と、また、この世に仕えて

いくことができますように。この身も、魂も、人間の体も心も、悪魔のものではなくて、ひたすら神のものになりきっているという、死と滅びの力へと、宣言された、この勝利の宣言を告げる責任を、わたくしたちがこの世にあって果たしていくことができますように、この地にあなたが建てられた主の教会を、そのために、大きく用いてくださいますように。

天地万物一切の主であられる、十字架とおよみがえりの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

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