まして、天の父の愛は深い

「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という三つの言葉によって、主イエスがお語りになっているのは、同じ一つのことです。

神に向かって願う願いは一つも無駄にならないということを、徹底的に知ってほしいということです。

「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」神は、あなたがたの御前にそのようなお方として立っていらっしゃるのだと宣言されるのです。

この主イエスのお言葉を自分への言葉として、今ここで聞くことが私たちには許されています。

なぜならば、主イエスは、ここで少しも条件とか限定を設けるということをしておられないからです。一体、誰に対して、このような法外な約束をなさるのでしょうか?

シンプルに、「だれでも」と仰います。誰でもと仰るからには、この約束から漏れている者は一人もありません。少し前の翻訳が、「すべて」と言っていたことが思い起こされます。誰でもとは、全ての人のことです。全ての者と言うからには、洗礼を受けている者もいない者も、今日ここにいる者も、いない者も、誰もが、この約束の元に置かれている人間であります。

このように全ての人に語られていることだから、この言葉を耳にした私たちは、今ここで、求めよと主イエスに語りかけられているその人なのだと、聴かないわけにはいきません。この言葉を自分に適応しようか?すまいか?選ぶことはできません。主イエスの方が私たちの元に来られてしまったから、自分を括弧に入れることはできなくなっています。私たちは既に、約束の内側にいます。

あなたの求めが聞かれ、あなたが探しているものが見つかり、あなたが叩いているその門が開かれるのだ、与えられず、見つからず、開かれないということは、絶対にありえないのだと私たちが今、言われているわけです。

もちろん、私たちは、主イエスから、誰にでも通じる一般的な法則のようなものを教わっているというのではないでしょう。強い思いをもって願えば必ず適う、自分の思いを信じて!!という、現代人が好む成功法則を教えていらっしゃるのではありません。

天の父の存在を指し示していらっしゃるのです。あなたがたには天の父がいるんだ。あなたがたの願いに耳を傾けている方がいるんだ。その父が、あなたの求めに応えてくださる、あなたが探しているものを見つけてくださる、あなたが叩く門を開いてくださる。

だから、「求めよさらば与えられん」ということは、努力すれば必ず実を結ぶ、強く願えば叶えられるという言葉ではなくて、人格との出会いの問題です。生ける神様が私たち人間を凝視しておられ、その私たち人間のどんな小さな願いにも注目しておられる、そこに生まれる生ける御方への信頼への招きです。

私たち改革派教会の伝統に立つ教会が大切にしてきた言葉の一つにコーラム・デオという言葉があります。「神の御前に」という意味の言葉です。

私たち人間の生活は隠れることなく常に神の御前にあるということを語る言葉です。ただ、教会にある時、神の御前にいるのではありません。24時間、365日、いついかなる時も、どこにあっても神の御前にあり、神との関りに生きる私たちだということです。

しかも、それは、身の引き締まる思いを与えることかもしれませんが、私たちがその御前にある神の御顔とは、父の御顔であると主イエスはここで仰るのです。

誰でも、全ての者が、例外なく、置かれている神の御前とは、私たちの父である方の前なのだと教えるのです。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。」

主がここで私たち全ての者に指し示すのは、「あなたがたの天の父」、他の誰でもなく、この私たちの天の父でいてくださる神さまです。

そのお方は、主の祈りを教えるために、まず、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」と主イエスが紹介してくださった父です。

善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださると紹介された父です。

その他の誰でもなく、あなたがたの天の父が、あなたがたにまなざしを注ぎ、その願いに注視してくださっているのだ、だから、求め、探し、門をたたくことが許されているのだと、私たちの祈りを主イエスは励ましてくださるのです。私はそのような天の父の姿をイメージするとき、キリスト者の詩人、八木重吉という人の「子どもが病む」という題名の詩をいつも思い起こします。こういう詩です。

  こどもが せきをする

  このせきを癒そうとおもうだけになる

  自分の顔が

  巨きな顔になったような気がして

  こどもの上に掩いかぶさろうとする

 

子どもが咳をしています。なかなか止まらない。5,6回、7,8回と連続で咳をする。大したことのない風邪だと分かっていても、万一、このまま窒息してしまわないかと心配になります。どうにか、咳を止めてあげられないかと、ジーッと子供を見ている。苦しくないか?ゼーゼー言ってないか?うなされていないか?そうやってジーッとジーッと布団の子どもを見つめていると、なんだか、自分の顔が大きくなって、子どもを包み込むようにして見ているような思いになってくる。それが、親心です。

同じように、コーラム・デオ、神の御前に隠れるところなくあるということを意識する前に、神が私たちを注目していてくださるということが先んじています。神様が、そっぽを向いていれば、御顔の前に生きるということはそもそも成り立ちません。けれども、神さまは私たちを今見つめておられる。だから、私たちの側でも、コーラム・デオ、神の御前に生きているということが意識される。この順序は逆転しません。

なぜ、神は、私たちに注目しておられるのか?主イエスは、ここでは、人間の父のことを思っても良いと仰ってくださいます。

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。」

悪人であっても、自分の子供には良いものを与えたいという親心、全身が顔のようになって、咳き込む子どもを見つめる親のまなざし、神は、そのように、私たちを覆うようにしてのぞき込んでいる天の父なのだから、求め、探し、門をたたくことが許されています。

それゆえ、私たちがこの天の父に祈る時、間違った祈りをしているのではないかとあまり神経質になる必要はありません。なぜならば、神と私たちの関係は、父と子だからです。

ここには、誰か?という条件と共に、何を?という条件もありません。

もちろん、父は、子どもの求めを何でも、100パーセント正しいとはしないでしょう。子どもの求めが不平不満の類のものであり、その求める通りのものを与えてやることが間違っていることに良い父親は、気付くでしょう。けれども、子どもが正しいものを求めていないことに気付いたからといって、良い親は、無視するという態度を取りません。そして、おそらく、その求めが間違っていればいるほど、その子どもの言葉に注意深く聞こうとするに違いないと思います。

パンではなく、石を求めてしまう子ども、魚ではなく蛇を求めてしまう子どもに、願うままのものを与えるわけにはいきません。けれども、そうであるからこそ、神は耳を注意深く傾けられるはずです。なぜ、そんなものを求めてしまうのだろうか?この子の心はどこに向かっているのだろうか?良い父はますます興味を持って、注意深くその求めに耳を傾けるに違いありません。

本当に本当に求めているものを見極めるためです。求めている私たち自身が気付いていない本当の飢え渇きを満たすためです。

主イエスは、天の父は、求めたものを必ずくださるとは仰いません。しかし、それは子である私たちにとって、決して悪いことではありません。主イエスは、注意深く、そして、それこそが、有難いことですが、天の父は、求める者に「良いもの」をくださると仰っています。私たちよりも、私たちのことをご存知の方が、私たちのために与えてくださるものです。それは、本当に良いものです。

それゆえに、それだからこそ、正しい求め、誤った求めが当然あるにしても、私たちの側からは、この祈り求めは、正しいか正しくないか、あまりあれこれ考えずに、単純に祈り求めて良いのです。

天の父は、私たち人間の父のように、将来を見通す力を持たず、子どもの心を見極めることができず、だから、パンを与えようとしながらかえって石を与えてしまい、魚を与えようとしながら、かえって蛇を与えてしまい、そのことに気付きもしないで、自分は精一杯良いものを与えたのに、子どもは正しい道に進まなかったと嘆いて途方にくれなければならない父ではないからです。

天の父はその御手で私たちも、世界をも治められています。どんなに私たちが御心から逸れて、ボロボロに傷つくような道を選択し続けても、必ず、良い道に連れ帰ってくださいます。

私は、そのような私たちの罪からでさえ、良きものを生み出される神さまのなさりようを思う時、幼いころに読んでもらった『錦のなかの仙女』という中国チワン族の物語を思い起こします。

ある山奥に機織り名人のおばあさんがありました。おばあさんが織り上げる錦はそれはそれは町で評判の美しい錦でした。

ある時、おばあさんは意を決して、心に描く美しい村里の景色を大きな錦絵に織ることにしました。

おばあさんは、昼夜問わず錦を織り続けます。夜は暗いので、松明を灯して織りますが、その煙で目がまっ赤にただれました。それでもおばあさんは、錦をおるのをやめません。
その内に、おばあさんの目から涙があふれて錦の上にしたたり落ちるようになりました。おばあさんは涙の落ちたところに、きよらかな小川を織りました。また、その内には、目から血が滲み、錦の上にしたたり落ちるようになりました。今度は、おばあさんは血の落ちたところに、まっ赤な太陽や、まっ赤な美しい花を織りました。そうして、織りあがった錦は夢のような錦だったと言います。

涙のしたたりは、清らかな小川となり、地のしたたりは真っ赤な太陽に織られる。私は私たちの天の父も、このようなお方であると思います。

私たちの罪、私たちの悪、間違った願いを、用いてでも必ず良いものを生み出してくださる父です。しかも、本当に私たちが必要としているものに変えてくださる父です。

もちろん、ここで、旧約創世記ののヨセフ物語におけるヨセフの信仰告白を思い起こすことは、意味のあることだと思います。

その物語は、肉の父の弁えのない溺愛と、ヨセフの考えの浅い軽口、兄たちの醜い嫉妬の末、一つの悲劇へと雪崩れ込んでいった家族の物語として始まります。人と人との間の小さな綻びが、一つの家族の共同体を壊します。けれども、命の奪い合いにまで至った兄弟たちが数十年後にエジプトで再会した時、ヨセフは、自分の命を狙った兄たちに、語りかけました。

「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

神は数千年の時の流れを経て、パウロというキリスト者に同じ告白をさせます。「人の心を見抜く方は、”霊”の思いが何であるかを知っておられます。”霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

ここで私たちの利益とされた「万事」として思い浮かべられることは、御子イエス・キリストの十字架の死のことです。

十字架の主を思い起こすとき、私たち人間は、本当に自分が何を求めているのか、少しもわからない者なのだということが露わにされます。

人間が神よりの贈り物であった御子イエス・キリストを十字架につけたのです。聖書に証しされるこの出来事はまさに、私たちが、パンではなく、石を求めてしまう捻じ曲がった存在であることを物語っています。主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と仰った通りの人間なのです。

けれども、天の父は、この人間のこんがらがった思いが惹き起こした悪を用い、その人間のための、その罪の人間を目指した救いを行われたのでした。主イエスの祈りの通り、私たちは赦されました。神は、人間の罪が生み出した十字架を用い、それをご自分のものとして引き受けられ、キリストの命によって私たちを買い取り、御自分のものとされたのです。天の父はそのようにして私たちの最大の罪を、最高の良いものに変えてくださったのです。

それゆえに、私たちの誤った祈りが赦されるということを単純に信じ、何でも自由に祈り求めれば良いのです。

それは、願った通りのものが与えられるということではなくて、はるかに良いものが与えられるからです。それが私たちの神が私たちの父であるということです。

けれども、神様を私たちの内から湧き出る悪いものを良きものに変えてくださる赦しと恵みに満ちたわたしたちの天の父であると信じるからこそ、その方のくださった祈り、主の祈りが私たちの心からの祈りになるのだと思います。

天にいます我らの父よ、あなたのお名前を崇めさせてください、御国を来たらせてください。あなたの御意志がこの地上になりますように。

私たちにとって本当に良いことは、自分と隣人を一体どこに導いて行ってしまうかよくわからない浅知恵に基づく自分の願い、自分の思いが、実現していくことではないからです。

私たちがどんな者であっても、見捨てることなく、必ず良いものを与えてくださる、私たちのために、生きてくださる天の父の御意志が実現されること以上に、必要なことはないからです。

どんな罪も赦されます。不平不満のつぶやきに過ぎない私たちの願いにも真剣に耳を傾けてくださいます。私たちはこの方の前で泣き叫ぶ赤子のように自由です。

だからこそ、遠回りは致しません。自分の願いの虜にはなりません。神により頼みます。主の親心である主の祈りを私たちの祈りといたします。

天の父が、私たちのために、私たちの助け主として、私たちを担っていてくださるからです。

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