「我々」と言ってくださる主

 今日の週報の裏面の牧師室だよりにも書きましたが、3週間の夏休みを頂き、すっかりリフレッシュいたしました。3週間礼拝説教の準備をしないということは、どれほど負担が軽くなることかと思い、当初はそのことを喜んでいましたが、しかし、その夏休みを終えて見れば、そのことよりも自分でない人が語る御言葉の説教を3回聞けたということの方が、大きな喜びであり、素晴らしい経験だったと感じています。一度は、外の教会で初めて会う牧師の説教を、後の二回は、この教会で長老が語る御言葉の説き明かしを聞きました。
 けれども、特に、共に教会生活を送っている二人の長老の言葉に、心動かされました。何度か共に準備を重ねたということもあると思いますが、新しくその聖書個所に出会う、今までは知らなかった恵みに気付くという経験を二回共にしました。
 牧師を休ませるために、長老が説教壇を守ってくださるというのは、多くの教会でできることではありません。これもまた、金沢元町教会の特筆すべき姿であります。そして、このこともまた、この教会が、全国の教会のモデルケースとなるべきことであると私は思っています。
 昨年のことですが、日本の代表的な神学者であり、世界的な説教学者である加藤常昭先生が、『説教への道』という書物を出されました。説教に関するたくさんの翻訳と、書物の執筆、また、自身の説教集を刊行してきた加藤先生ですが、その膨大でありながら、まだ途上であると公言される加藤説教学の小さな手引きとしてこの書物を刊行なさいました。説教の務めを週ごとに行う牧師にとって、200頁足らずのコンパクトにまとめられたこの本は、とてもありがたいものです。しかも、この本のタイトルが、『説教への道』と題されるように、それは具体的に、一人の人が説教をするという課題を与えられて、聖書の前に立ち、説教壇で実際に語られる説教を準備するための手引きの書であることを目指しているものです。説教の課題を負った者が、誰でも手に取り、読み通すことが出来るように、その実際の助けになるようにとの配慮に満ちています。
 けれども、実は、これは単に牧師向けの書物ではありません。その本がコンパクトである意味は、信徒の誰もが読み通せるようにという意図をも含んでいます。この書には、はっきりと、こういう副題が付いています。「牧師と信徒のための説教学」と。序章の最初のページにこういう一文があります。「説教者として務めを与えられている牧師でも、教会から説教をするようにと務めを与えられた信徒でも、これを読めば、説教ができるようになることを願って書き始めました。」と。この書物が牧師の為だけではなく、信徒の為にも書かれているということは、どういうことであるのか?この一文から明らかです。牧師には、説教の仕方、信徒には説教の聞き方を学ぶようにということではありません。牧師も信徒も、教会からその務めを委ねられた時に、説教をすることが出来るようにという手引きです。加藤先生が見据えているのは、牧師だけではなく、信徒も説教できるようになる教会であると思います。私が、この金沢元町教会が、全国の教会のモデルケースになるという理由は、そのためです。この教会ではそのことが既に実際に始まっているからです。
 以前にも少し申し上げたことがありますが、マルティン・ルターが行った教会改革の原理の内に、必ずしも、プロテスタント教会において実現しきっていない原理があると言われます。それは万人祭司とか全信徒祭司制とか言われることです。司祭、司教だけが、神から任じられた祭司なのではない。平たく言えば、全てのキリスト者が、聖職者であり、神に身を捧げた献身者であるということです。ルターは聖書を母国語に翻訳しました。それは、一人一人が聖書を読むようになるためです。聖書は、教会の教師の手引きがなければわからないものではない。共にいてくださる神の霊、キリストの霊の助けによって、キリスト者の誰もがそこから恵みを受けることが出来る、しかも、ただ自分の為ではなく、共に生きる教会の仲間のために、この世界のために、神の恵みの言葉を聖書から聞き、語り聞かせることが出来る、そう信じて、聖書を母国語に翻訳しました。
 けれども、全信徒祭司性は、ある人の表現で言えば、ルターの改革500年の宿題であると言われます。やはり、牧師が聖書を独占してしまっているような面があるのです。牧師が解きほぐして語らなければ、聖書も、その信仰も分からないという風に私たちプロテスタント教会に属する者もどこかで思い込んでしまっているのです。
 伝道の不振が叫ばれて久しくありますが、これは当然と言えば、当然です。牧師一人にできることは限られています。牧師に依存して伝道し、教会の命である御言葉の告知を牧師だけに任せて、教会形成をするならば、その牧師の能力以上には、教会は成長しません。たとえば、私が伝道するだけでは、太鼓判を押して、この教会はこれ以上成長しない自信があります。
 けれども、この金沢元町教会は、そういう教会ではありません。祈祷会でも、牧師はほとんどしゃべる必要なく教会員同士が、御言葉を語り、励まし合い、牧師の夏休み中は、長老が説教壇を守る教会です。ここではプロテスタント教会の500年の宿題が取り掛かられ、その宿題を果たすことによって、喜びの実が結ばれています。喜んでいるのです。一人の人間の口からではなく、多くの人間の口から、聖書の恵みが響きだし、それぞれに個性的でありながら、しかし、同じ一人のお方を指し示す同質の言葉が溢れ出して響き渡ることを経験し、喜んでいます。牧師だけではありません。ここにいる一人一人の信仰者が、あちらでも、こちらでも、運河となって、御言葉の水を、生ける命の水を流しています。一つ一つの流れが集まって神の言葉の運河を作るのです。そういう意味で、私はこの教会のことを宣伝しなければならないと思っています。
 さて、今まで喋りましたことは、久しぶりの説教の前置きではありませんで、今日共に聞きましたイエス・キリストのなさった出来事、神のなさった出来事の結論、実りそのものであると私は信じています。今日共に聞きました聖書の物語において、キリストが洗礼者ヨハネの元に身をかがめ、罪の悔い改めの洗礼を受けられたから、私たちキリスト者は神の言葉であると信じる説教をこの口を通して語ることが出来るのです。
 7月の長老会で、私はちょっとした戸惑いを長老方に感じさせてしまいました。既に、先週、先々週に二人の長老が語った言葉を通して、気付かれた方がいるかもしれませんが、二人の長老に担当していただく、2回の礼拝の御言葉の務めは、説教から一段劣るものとしての奨励ではなく、私が毎週語るのと同じ説教だと申したことによります。何となく、日本の教会の伝統において、牧師が礼拝で語る御言葉の取り次ぎが説教、祈祷会での話が奨励と言い慣わされているように思います。このような分け方はある面では正しく、奨励とは、奨め、励ますという文字からわかりますように、祈りを奨め、励ます言葉として、祈祷会での説教をその目的を前面に押し出して奨励と呼びます。
 けれども、この呼び方の違いを目的によるというよりも、重要度の違いとして理解する傾向が一般的にはあるのではないでしょうか?日曜礼拝からは一段劣る平日の集会での、聖書の説き明かしが奨励ならば、牧師ではなく、信徒が日曜日に説教壇で語る言葉も、牧師が語るよりも一段劣るものとして説教ではなく奨励だろうという忖度があり、日本全国で、信徒が日曜日に語る説教を、奨励と呼ぶという慣習が生まれたのではないかと推測します。
 このことを改めて、考えながら、このような忖度と配慮は、頭から批判されるものではなく、たいへん奥ゆかしいものであると思いました。そこには、日本のキリスト者たちの誠実な謙遜の思い、そして、神の言葉に対する麗しくもある正しい恐れがあると思いました。
 説教とは、生ける神の言葉として信じて私たちが聞く言葉です。そこで語られるのは単なる人間の言葉ではなく、今、この私たちに語りかけていてくださる生ける神の御意志、神の生けるお言葉として私たちは説教を聞きます。そうであるならば、説教をするということは、御言葉を語るということは、とても恐ろしいことです。なぜ、日々の出来事に一喜一憂し、キリスト者でありながら、日々、ふさわしくないとしか思えない言葉と行動をしてしまうこの私の言葉が、生ける神の言葉として用いられるだろうかと思うのです。私の語る言葉が、今日礼拝に集った人を生かすために神が語りかけておられる言葉であるということが出来るのかと思うのです。それは、「神様を信じて見ませんか?」という程度の奨めの言葉に過ぎない。私個人に通用する私の個人の信仰の証に過ぎないものだと、このような思いが、信徒による奨励という言葉の背後にあるならば、これは本当に急所を突いた思いであると思います。
 けれども、この急所はただ、信徒説教者の急所であるのではなくて、正規の神学教育を受け、正規の手続きを経て説教者として立てられた教会の牧師、伝道師の急所も貫いています。突き詰めるならば、どんな人間の教育が、神の言葉を神の言葉として響かせる備えをさせることが出来るでしょうか?どんな人間の資質が、神の言葉を神の言葉として聞かせることが出来るでしょうか?私たち人間の側に目を留めるならば、私たち人間の語る言葉が神の言葉であるなどと自称するということは、恐ろしく傲慢なことであり、冒涜的なことです。
 けれども、今日共に聞きました聖書が記録する出来事、そこに鮮やかに示された主イエス・キリストの御言葉と行動が、私たち地にある人間に、生ける神の言葉を語るように確かに赦してくださっているし、委ねていてくださっていると思うのです。すなわち、前回、聞きました直前の個所、マタイ3:11,12において、聖書をして後に、主イエスから地上で最も大きな人物であると言わしめた洗礼者ヨハネが、自分の後に来られる方の前では、「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」と言わざるを得ませんでした。それは、説教を奨励と呼びたい、自分には神の言葉を語る資格はない、人を励まし、伝道するために聖書を読み解くことはできないと躊躇する私たち人間の心と全く同じものだと思います。私にはその値打ちがないとしか言いようがなく、私の言葉も行動も、真の神がやがて来られ、ご自分の口で、ご自分のことをお語りになる時には、火で焼き払われるようなもみ殻の言葉でしかない人間の言葉であり、そういう自分であると思うヨハネの心は、御言葉を語るという課題に直面した私たちの心そのものであると思います。そして、洗礼者ヨハネが例外でないならば、やはり牧師も例外ではないのです。牧師も皆さんも、神の言葉の前に同じです。聖書の言葉を生ける神の言葉として語る上で、牧師の方がよりふさわしいということは絶対に言えません。同じもみ殻です。
 けれども、イエス・キリストがヨハネの元に実際に来られた時、もみ殻を燃やす火を帯びた方、その方の前に私たちの言葉も私たち自身もふさわしさと価値を何も持たないと言わざるを得ない方が実際にいらっしゃったとき、そのお方は、履物のひもを解く値打ちもないヨハネの前に、怒りの審判者としてではなく、ヨハネの手から洗礼を受けようとやって来られました。洗礼者ヨハネはこの主イエスのお姿に、どんなに面食らったことか。だから、ヨハネは、「それを思いとどまらせようとした」と14節に書いてあります。そして言うのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
 適切な答えです。主イエスは本当におかしなことをなさっています。ヨハネが授けていたのは、罪の悔い改めのしるしである洗礼です。宣べ伝えるヨハネ自身も例外でなく受けなければならない人間を捉える罪を認め、神の前に向き直すための水の洗礼です。
 なぜ、主イエスがそのような洗礼を罪人の一人である人間ヨハネから受けなければならないということがあるでしょうか?しかし、主イエスはお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
 「正しいこと」、果たしてそれが主イエスにとって正しいことだと言えるのでしょうか?それは、主イエスにとっては、ちぐはぐな事とは言えないだろうか?私はそう思います。
 けれども、これは私たちにとっては恵みの言葉です。有難い言葉です。恵みの行動です。有難い行動です。
 主イエスにとってなぜ、これが正しいことなのか?私は15節後半の主イエスの言葉の中で用いられた人称代名詞、その1人称複数形に理由があると思います。すなわち、主イエスにとって、この罪の悔い改めの洗礼が正しいことでありうるのは、主が、ここで本当に「我々」になりきっておられるからです。よく考えて見て頂きたいのは、主はここで、罪の悔い改めの洗礼を受けることは、「私にふさわしいことだ」とは仰っていないということです。「私」とは仰らず、「我々にふさわしいことだ」と仰るのです。「我々」、つまり主イエスの履物のひもを解く値打ちもないヨハネと御自分を一括りにされる「我々」です。それはまた、同時に、ヨハネが自分をその一人として数えざるを得ない偽善者であるファリサイ派、サドカイ派と御自分を一括りにされる「我々」ということができるでしょうし、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一体から洗礼を受けにやって来たと言われる群衆と御自分を一括りにする「我々」でもあり、もっと正確に言えば、罪の悔い改めの洗礼を受けなければならない、それがふさわしく正しいことである、全て、神に逆らい、神に背く、罪人である人間、全ての人間を御自分と一括りにしてしまった「我々」でしょう。だから、この洗礼を受けることは、主イエスにとって、正しいことになります。主イエスが私たちのところに来られ、私たちの側に立たれたからです。しかも、同時に父なる神は、そのような御子の人間との共同をやはり、御子の歩みにとって、正しいことだと見做していらっしゃる。それが、主イエスにとって洗礼を受ける「正しさ」であると思います。
 しかも、ここで、はじめて主イエスは、御自分と私たちを一つにし、人間の運命を御自分に引き受けたのではありません。それは、今まで見てきたように、既に、クリスマスの意味そのものです。主イエスというお方は、人間を追いかけて来られた救い主です。失われた者を探し出す神です。どこまでこの方は、人間を追って来られるのか?ここでも、一つクリスマスの秘密が明らかになりました。もみ殻に過ぎない私たちであっても、追って来られ、私たちと一つになられるのです。それを父が良しとしてくださるのです。
 主イエスが洗礼を受けられた時、天が開け、聖霊が下り、そして、声が聞こえてきました。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
 父なる神の声です。この父なる神の声に従って、わたしたちは知ります。この私たち人間を御自分と一括りにしてしまうお方、私たち人間の有り様を共に担ってくださる方、良いものではなくて、私たちの罪を御自分のものとして担ってくださるために来られた方、この方が、父の愛する子、心に適う神の独り子なのだ、それが父の御心なのだと。
 カール・バルトという神学者は、洗礼者ヨハネという人を、キリスト者の姿と使命そのものとして理解しました。グリューネバルトという画家が描いたイーゼンハイムという土地にあった修道院のために描かれた祭壇画、十字架にお掛になる主イエスのお姿を描いた祭壇画のレプリカがバルトの書斎には常に飾ってありましたが、その十字架の主イエスの右手には、細長い指でその十字架の主イエスを指し示す洗礼者ヨハネの姿が描かれています。その洗礼者ヨハネの姿は、この地上にある人間である私たちが、神の子である主イエスを指し示し、生ける神の御意志を語る者とされているその姿だとバルトは理解しました。なぜ、その方の履物のひもを解く値打ちもない私たちにそのようなことが出来るのか?もはや、多くの言葉を足す必要はありません。
 私たちが高みに上ることによってではなく、主イエスが私たちのところに来て下さったことによって、私たちは、神の言葉を聞いたのです。
 私たちが生ける神の御意志として、そのお方の生けるお言葉として聞き、語るべきイエス・キリストの出来事は、私たちの手の届かない天で起きたことではなく、まさに、この地上に、それどころか、この私たちの身に起きたことであるゆえに、私たちが語るのです。主イエスが「我々」と仰るその中に、既に、私たちは入れられており、私たちは、その出来事の中にあることを知っているのです。
 だから、私たちは語ります。主イエスと共に、主イエスにおいて神がなさった私たちに起きたことを語ります。それが説教です。我々が主イエスと共に語る神の出来事、神の生ける言葉です。しかも、今日の聖書個所で、すでに明らかなように、私たちのことを心にかけて、「我々」と呼び始めてくださったのは、主イエスの方からなのです。つまり、私たちがそのことを知る前から、主イエスにとって、私たち人間は、主イエスと共なる「我々」だったのです。それはすなわち、ここにいる誰一人として、この「我々」から、除外されている者はいないということです。
 それゆえ、私たちは、主イエスに「我々」として数え入れられたことを知った者としてここにいらっしゃるまだ洗礼を受けていない方々に、生ける神の思いをお伝えいたします。主イエスは、あなたのこともまた、ご自分と共なる「我々」と見做していてくださいます。主イエスの恵みはみな皆さんのものです。
 罪は全て主イエスがご自分のものとして担われています。そして、それに代わって、皆さんもまた、主イエスに告げられた「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の絶対的な肯定の声を、主イエスに一括りにされている主イエスと共なる「我々」とされているゆえに、今はこの天の父の声を、御自分への語りかけとして聴かなければならないのです。

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