キリストの血筋に入れられる

マタイ1:1-17

 7月に入りました。赴任してから三か月たちました。これまでは、この主日礼拝の説教箇所は、自由な聖書個所を選んできましたが、今日からは、マタイによる福音書を説こうと予定しています。マタイによる福音書を始めから終わりまで聞いていく講解説教をしていく予定でいます。マタイによる福音書を選んだのにはそれほど深い理由はありません。主の日の礼拝で聞く聖書個所は基本的に福音書であるというキリストの教会の歴史的な伝統がありますから、やはり、最初に講解していく聖書として4つの福音書のいづれかにしようと考えました。そして、元町教会のホームページに載っている限りの堀江先生の説教箇所を確認し、ルカとヨハネが既に説かれており、ホームページに載っている限りは、マタイによる福音書とマルコによる福音書が最近では取り上げられていないという理由で、まずは始めに置かれたこの福音書を選びました。けれども、それはふさわしいことであったと後から思います。マタイによる福音書には、4つの福音書中、唯一「教会」という言葉がはっきりと出てきますから、私たち教会に生きる者は、この福音書の中に自分自身の姿を見つけやすいのではないかと思いました。
 私たちは自分たちが教会であることをとてもよく考えている群れであると思います。先週の牧師室だよりにも書かせていただきましたが、この教会は自分たちが教会であることをよく弁えている群れであると感じています。つまり、お客様気分で教会と自分が向かい合って存在しているわけではありません。そのような間違いにおちいる場合、私たちが教会について語る言葉は、「元町教会は、私に対して、、、」というようなものになると思います。けれども、また、教会に対立して立っているのではない場合でも、「私たちの元町教会は、」とあたかも教会を自分の所有物のように語ってしまう逆の過ちにおちいる可能性もあるかもしれません。しかし、この群れは自分と教会の関係をそのようにも捉えていないと思います。全く正確に、元町教会のキリスト者たちが教会を語る言葉は、「私たち教会は、」という語り方になっていると思います。これは本当に正しい語り方だと思います。この私が、隣にいる仲間と共に、主の体なる教会を形作っているその部分なのです。だから、教会を語る言葉は、「私たち教会は、」となるはずだと思います。私たちは教会と面と向かって対立して立っているわけではないし、また、教会を自分のものとして所有してしまうこともありません。おのおのが、主なる神の所有とされ、主イエスの体の一部を形成する教会自身です。まさに「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」というⅠコリント12:27の言葉を正直に聞くならば、「主の教会である私たちは、」という言い方が、私たちにはふさわしいものなのです。ですから、マタイによる福音書が教会について語るとき、あるいは、主イエスと教会の原型である弟子をはじめとする人間たちの姿を語るとき、それはそのまま私たち自身のことを語っていると考えて良いことになります。ここには、私たちの物語があると言ってよいのです。
 ところが、正直に言いまして、マタイによる福音書は、とてもじゃないけれど、引き込まれて読むことのできる出だし部分とはなかなか聞き取れません。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、、、」と、カタカナの名前が続いていきます。私が高校生の時、とても流行っていた漫画を見て、そこに聖書的なモチーフが出てきましたから、それではと、生まれてはじめて聖書を読もうと手にしましたが、もう直ぐに止めてしまいました。それはやはり、このマタイによる福音書の系図の為だったなと思い出しました。
「ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、、、」
 全く馴染みのないカタカナの名前が羅列されていて、何の興味も持てなかったと思いだします。しかし、洗礼を受けた者であっても、それほど、マタイによる福音書の書き出しに対する印象は大きく変わらないものであるかもしれません。4つの福音書のそれぞれ特徴ある書き出しの言葉の中で、マタイが一番心に響くという人はほとんどいないかもしれません。まるで、それは旧約聖書の神の幕屋の建築方法の説明や、様々な祭儀の仕方の記述同様、あまり、今の自分たちには関係のない言葉として読み飛ばしてしまうことがあるかもしれません。だから、説教においても、ここは飛ばすという選択肢はありうるかもしれません。
 けれども、一度、じっくりと、なぜ、マタイはこのような書き方をしなければならなかったのかと問うてみるのは良いことかもしれません。なぜ、マルコのように洗礼者ヨハネからでもなく、ルカのように最初の読者への献呈の言葉からでもなく、ヨハネのように詩的で思索的な言葉からでもなく、イエス・キリストの家系図から始めなければならないと思ったのか?と考えて見るのです。家系図を最も必要とする文書とはどういう文書なのでしょうか?それは、おそらく伝記とそれに類するものと言うことができるのではないかと思います。特筆すべきある一人の人物の生涯を始めから終わりまで描く伝記という文学ジャンルにおいては、その一人の人物の出自を語る家系図というのも、興味深い情報であると言えると思います。これは、この人物に全く興味のない人にとってはほとんど無意味な家系図でしょうが、この人に興味を持った者には、有益な情報であり得ます。たとえば、この元町教会の初代牧師である長尾巻が、加賀藩奉行長尾八之門の息子であるということも、私たちにとって、無意味な情報ではありません。つまり、ある特定の人物の生涯と業績を辿る伝記的な作品においては、その書を手に取る者にとって、その人物の家系図は、全く無駄なものとは言えません。その意味でも、教会の門をくぐる者にとって、イエス・キリストの家系図は、全く興味の湧かない家系図とは言えないでしょう。
 この家系図では、最初にアブラハムという名前が出てきます。マタイによる福音書では、この人が、イエス・キリストの家系図に名を連ねる最古の人物です。このアブラハムはイサクをもうけたアブラハムだと書いてあります。もちろん、これは旧約聖書に記されたユダヤ人の信仰の上でも血統的にも全てのユダヤ人の先祖であるアブラハムだということになります。なぜ、人類の始祖と言われるアダムまで遡るルカによる福音書に記された家系図と違い、マタイではアブラハムから系図が始まるのか、これ以上の説明はありませんが、1:1では、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書かれていますから、イエス・キリストがアブラハムとダビデの子孫であるということは、著者にとってとりわけ大切であったのだということは言えると思います。自分たちはアブラハムの子孫だというのは、ユダヤ人にとってとりわけ大切な事であったというのは、他の聖書個所からも窺うことができます。聖書には旧約でも新約でもしばしば「アブラハムの子」、「アブラハムの子孫」という表現が出てきます。これはたとえば、クリスチャンが自分達のことを神の子だと語るのと同じように、ユダヤ人のアイデンティティーを表す大切な表現でした。アブラハムの子孫であるということは、彼ら自身にとって神に選ばれた神に愛される民族ということを意味していました。イエス・キリストはこの選びの民の家系に属すると語られているわけです。
 続いて6節の、「ダビデ」という名前、これも、1:1に名が挙げられている大切な人物であり、これは、もちろんイスラエル建国の父ダビデ王のことです。今もイスラエルの国旗は、ダビデの星と呼ばれるダビデを表すしるしが用いられています。イスラエルの国家としての存立は、まさにダビデという名と深く結びついています。だから、イエス・キリストがダビデの子孫であるということは、イエス・キリストに興味を持つ人には、重要な情報であると言えます。実際のところ、もしも、マタイによる福音書の冒頭の系図が、他の多くの偉人の伝記のようにイエス・キリストの出自の華やかさや、正統性を証しするもの、たとえば、三国志の劉備玄徳は、うらぶれた農家の子であるように見えるが、その実、由緒正しき皇帝の子孫であると同じように、大工ヨセフの息子であるイエスが、実は、信仰の父アブラハムと、ダビデ王の末裔だということを語ろうとするものであるならば、案外、人は関心を惹かれることがあるのかもしれません。私たちも、何気なく接していた友人や知人が、郷土の偉人の末裔であったり、有名人の親戚であったりするのを何かの拍子に知ると、少し見方が変わるということが起こるものだと思います。
 けれども、なお、このように問うこともできるでしょう。私たち現代人にとっては、家系図を前面に押し出すということはやはり、ある種の反発を覚えることでもあるのではないだろうか?と。ある一人の人を理解する上で、その人自身ではなく、その両親や、祖父母の名前がどれほど本質的な価値を持つのだろうか?と。それは、一時的な関心を引くかもしれないけれども、ある人の家系図はその人を理解するうえで、本質的な部分ではなくて、突き詰めて言えば、あってもなくても良い、飾りに属するものではないだろうか?少なくとも、現代に生きる我々はそのようにしか捉えることができないのではないだろうか?とも思うのです。だから、マタイによる福音書がその福音書の書き出しという極めて重要な部分で、主イエスの家系図を気にしたということ、また、かえって、その家系が華やかなものであればあるほど、私たちの心は冷めて行くところがあるのではないだろうか?と思うのです。聖書には、使徒パウロが、実際こういう警告を発した言葉が記されています。「人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」(Ⅰテモテ1:4)また、違う場面でも同じように言います。「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての議論を避けなさい。それは無益でむなしいものだからです。」(テトス3:9)古代人はいざ知らず、私たち現代人には、おまけ程度にすぎない、無くても一向に差し支えないもの、むしろパウロの言葉に従えば、イエス・キリストというお方を理解する上で、邪魔なものでさえあり得るのではないかと思うのです。
 ところが、この無くてもかまわないのではないかと思われるアブラハムやダビデをイエス・キリストの祖先として語るこの華やかに見える系図は、丹念に見るならばそれこそが聖書のスリル溢れるところであると思いますが、実は、立派な系図ではないのです。もしかしたら私たち現代人が短絡的に、昔の人がイエス・キリストの出自のすばらしさを語るために、現代のわれわれ日本人にはわからないカタカナの名前ばかりだけれども、少なくとも私たちにもわかるアブラハムやダビデに代表されるような当時の人にとっては、まぶしいばかりの華やかな名前が先祖として書き連ねられていると思うならば、それは誤解です。
 これは旧約聖書の描き方と本当に共通していると思いますが、この一つの家系図から見えてくる歴史、それは、旧約の描く人間の歴史そのものであると言うことができると思います。
 3節に「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。これは創世記第38章にするされた出来事を示唆しています。アブラハムの孫にあたるユダは、タマルによって、ダビデの直系の先祖となり、イエス・キリストの先祖となるペレツとゼラを生んだとあります。けれども、このタマルは、ユダの妻ではないのです。このタマルは子をもうけることなく早世したユダの息子エルの妻であり、長い話を短くすれば、遊女の変装をしたタマルのもとに入り、ユダが設けた曰くつきの子なのです。5節のラハブもまた、創世記で遊女として知られる人物です。
 そして特筆すべきは、6節後半の言葉です。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。既に、普通ではない記述です。ダビデの子であるソロモンは、「ウリヤの妻によって」ダビデがもうけた子だと記されています。ダビデ王が自分の部下の妻に横恋慕し、寝とり身ごもらせ、それが発覚するのを恐れて、策略をもって戦場で部下を殺し、そのウリヤの妻を自分の妻としたのです。
 美しい記憶がよみがえる家系図ではありません。地にある人間の生臭い家系図です。福音書を書いたマタイが、「ウリヤの妻によって」とわざわざ記す時、彼はダビデ王を理想的な人物として描き出しているのではないということは、明らかであると思います。イエス・キリストのお生まれになった家系図は、旧約に描かれた私たち人間の悲しい罪の歴史そのものであることを示そうとしたのだと言って良いと思うのです。
 そのような綻びのある家系図であると理解した時、この家系図の持つ意味が初めて私たちに明らかになるのではないでしょうか?つまり、この系図が明らかに普通の英雄や偉人の伝記において家系図が持ち出されるときになされるように、その人物の生まれの華やかさや正統性を語ろうとするものではないのです。非常に人間らしいのかもしれない良いところと悪いところの混ざった美しいとは言えない歴史であり、また、11節の「バビロンへの移住」という表現から歴史に翻弄された人間の記録であり、その後は、最初の読者も知らない名が連ねられた無名の人々の家系図でもあり、そこに主イエスの名が登場するのです。恥と、平凡な名前にまみれた家系の中に、主イエスが生まれたと語るのです。それは、神の御業が、立派な英雄の家計、特別な選ばれた人間の家計の中ではなく、罪と恥にまみれた人間の只中に入って来られたということを語ろうとしているということなのではないでしょうか。
 私たちは家系図が書かれるというと、イエス・キリストの正当性を証明する家系図だという普通の家系図の役割に従って捕らえようとするかもしれませんが、この系図を書いたマタイの視点は、全く違うのではないでしょうか?つまり、全く逆であって、主イエスによって、この家系図が救われるのではないでしょうか?アブラハムの子孫だから、ダビデの子孫だから、主イエスは救い主だと言うよりも、救い主は、まさに彼らを救うためにやって来たのです。主イエスが罪人の系図の中に、その只中に飛び込んで来られたのです。
 すると、このあまり興味の湧かないかったかもしれない系図がそのまま、「マタイによる福音書」と名付けられた書が今から語ろうとしているイエス・キリストの福音そのものを既に語っているのだということに気付かされます。
 すなわち、私たちの心を打つ、マタイ9:12に記されるような罪人を招き共に食卓を囲まれるイエス・キリストの福音の神髄、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ということがそのまま一つの家系図にもたらされたと言うべきでしょう。
 すると、この家系図は、私たちにとっても、全く退屈でなくなります。私たち自身といかに関係のある記述であるかと身を乗り出して聞かないわけには行かなくなります。イエス・キリストは罪と恥の血筋を御自分の血筋としてしまわれたのです。マタイはそう語ります。それは、世の終わりまで罪人と共におられるという主イエスの生涯を貫いたメッセージの変奏曲のようなものであると言えます。しかも、その変奏曲が最も重要であると言える物語の冒頭に置かれます。
 そして、そのことによって、イエス・キリストが生まれた時代に、主イエスと共に歩んだ人間だけではありません。アブラハムから、主イエスの時代に至るまでの人間の歴史をキリストの福音の出来事に巻き込んで見ているのです。
そして、それだからこそ、2000年前のキリストの出来事が、そのまま同じように、私たちにとっての、福音、良き知らせであると言えます。
 私たちも、同じです。恥ずかしくて人には決して披露できないような私たち人間の罪の家系図があります。10代も遡る必要はありません。既に、私の親のこと、祖父母のこと、兄弟のこと、子のこと、孫のこと、それだけを視野に入れるだけで足りると思います。こんな恥ずかしい家族では、神様にも、人様にも面目が立たないと思うその私の家族の家系図をキリストがご自分の家系図とされていると私たちは言うことができます。その罪と恥にまみれた家族とは、親でも子でも、兄弟でも、先祖でもなく、そもそもこの私たち自身であり得るかもしれません。この私が自分の利益のために他者を圧迫する者であり、倫理的な過ちを犯した者であり、あるいは無名の者であるかもしれません。けれども、イエス・キリストはその私の家族となることを恥ずかしいこととは思わず、むしろ、進んでそれを選ばれるということです。使徒言行録16:31に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」という印象深い言葉がありますが、これは、マタイの家系図から読み取られるキリストの出来事をも意味しうると言って良いのではないかと思います。そしてそれは、非キリスト教国である日本に生きるキリスト者である我々にとって、希望ある言葉ではないかと思うのです。
 このイエス・キリストからアブラハムまで遡る系図は、もちろん、このマタイによる福音書が書かれたときには、過去に遡る系図として書かれたものです。けれども、私たちがこの過去に遡る系図を見て、父なる神が御子イエス・キリストをそこへお送りになった、神の選び取られた系図を思い起こす時に、同時に、私たちが、受け止め、また、期待するのは、この系図はさらに伸びていき、洗礼によってキリストに結ばれた私たちがこの系図の中に加えられているということです。そして、また、これからも、罪と恥にまみれた系図を持つ者、無名の系図を持つ者、あるいは自分自身がそのようなものである者が、ここに付け加えられていくのだということです。
 ヘブライ人への手紙2:11に「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」という言葉があります。それはこの系図と合わせ見ると、改めて重い言葉であることが分かります。私たち人間は、主イエスから恥とされないのです。主は兄弟となってくださったのです。それは全く、言葉そのものの意味において、比喩でも何でもなく、キリストが、人間の罪の血筋を御自分のものとされたことによって、事実はその通りなのです。

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